地獄と化した海
24日午後、浮島丸は舞鶴湾へ入って行った。停泊しようとしているのは軍港がある東港。「永英丸」の船員だった金福道さんは、その時のようすを次のように語る。
「船が(舞鶴湾の)入り江に向かった直後に、『この船は午後5時(筆者注:大本営海軍命令では6時)までに入港しなければならなくなった」との艦内放送がありました。船で知り合った金沢さんと、『入港するから甲板へ上がってみよう』と船首の甲板に出たんです」
「船は錨を下ろしました。大きな音がするので分かるんです。『どうして、桟橋から遠く離れた所に停まるのか』と思いました。錨を引き揚げて再び動き始めてから、約30分後に爆発が起きたんです。吹き飛ばされて腰を強く打ちました」
甲板にいたたくさんの乗客たちは、バラバラと海へ落ちた。船は惰性で、爆発してから約400メートル進んで沈んだ。2等兵曹だった長谷川是さんは、次のように語っている。
「艦が爆発した時、私は甲板で入港準備のための作業をしていました。そしたら突然ボカーンでしょう。吹き飛ばされて甲板にたたきつけられました。あとは無我夢中です。艦内も大混乱で、カッターを降ろす者、走り回る者、叫んでいる者、朝鮮人たちが必死で甲板まで上がろうとしている。アイゴー、アイゴーと叫んでいる女性や泣き叫ぶ子供。もう混乱の極みにありました」(『浮島丸 釜山港へ向かわず』)
「爆発で甲板にあった船倉の蓋が吹っ飛んだんでしょう。その近くにいた私は、ふと船倉の底をのぞき込んだのです。なんと水がごうごうと渦巻いているんです。その渦に朝鮮人の女・子供が巻き込まれ、必死になって手を上げて『アイゴー!』と叫んでいるんです。そして水の中に飲まれていきました。地獄でしたね・・・」(前出)
船の中は、修羅場と化した。呉相弼(オ・サンピル)さん(1922年生まれ)は、爆発時に赤ん坊を抱いていた。飛ばされて倒れている呉さんの背中の上を、たくさんの人が踏みつけて行った。「水に溺れている人たちは、互いに引っ張り合って地獄のような光景でした」と語る。
金昌植さんは、「救助の小舟に皆がしがみつくので、何隻もがひっくり返りました。海に落ちた人は、渦に巻き込まれて死んでいったんです。海は血の色で赤くなっていました」という。
駆けつけた住民たち
沈没する浮島丸へ最初に救助に駆けつけたのは、佐波賀の住民たちだった。その一人、蓼島恵子(みしま・けいこ)さん(1924年生まれ)から話を聞いている。8月24日は、蓼島さんが塩を炊く当番だったので、浜で海水を煮詰めて塩を作っていた。兵隊に行った夫は戻っておらず、集落には女性と年寄しかいなかった。
自宅で食事の準備をするため、作業を母親に代わってもらった。家の中へ入ろうとした時に「バーン!」という音がした。急いで浜へ戻ると、船が沈没しようとしていた。「姉さん、助けてあげて!」と隣家のおばさんが叫んだ。その女性の息子は、海軍で戦死していたのだ。
蓼島さんは、小舟を出して助けに向かった。海には重油が広がっていて、海面に浮かぶ人たちは男女が分からないほどだった。沈没する船の片側だけに人が群がっていたので、小舟は反対側へ行くように兵隊が指示していた。
2~3回往復したところで他の人と交代し、救助された人たちの世話をした。自宅の土間で火を焚いて、助かった人たちの服を乾かした。
船体を少しずつ沈めていった浮島丸は、爆発から約1時間後に動きを止めた。この場所の水深は17メートルと浅いため、マストと電探(電波探知機)装置を水上に突き出していた。
海岸には乗客の荷物が次々と流れ着き、その中にはたくさんの紙幣もあった。それは、帰国する朝鮮人たちの全財産だった。
李再石(イ・ジェソク)さん(1916年生まれ)は、約8年間、発破作業の技術者として働いた。その間、故郷へ一度も戻らず、ひたすら働いて約3万円を貯めた。それを入れた大型トランクは、船から持ち出すことができなかった。
助かった朝鮮人たちは、船に二度と乗りたくないため日本へ残った人もいるが、多くは祖国へと戻って行った。
「故郷に戻ると、私と一緒に徴用された人の妻が、2人の子どもを連れて訪ねて来ました。そして、『どうしてあんたは一人だけで戻って来たのか』と泣くんです。私も泣くだけで、返す言葉もありませんでした」
そのように、朴載夏さんは語った。孫東培さんや金東連さんのように、爆発時に負ったけがのため、働くことで出来ずに大変な苦労をした人たちもいる。
大変な事件があったんですね~
この文章も、朝から読むのも、ちょっと疲れました~💦 ながぁぁぁ~
しかし、真相解明できればいいですね~ そして、しっかりとした賠償!👏
犠牲になった人たちの思いは、もう計り知れないですもんね~😢
お札が一瞬にして~ パー💦
この事件は昔から言われてたんだけどあまり知られてないんだよね。
事実、在日の中でも知らない人も多い。
でも、長い植民地政策によって日本で限りない苦労をした我らの祖父母やアボジ、オモニが、解放の喜びを持って故郷に帰ろうとした矢先に、無惨にも舞鶴の海に沈んだ無念を思う時、決して風化させてはいけない事件だと思う。
こう言う企画は堅苦しく、避けて通りたい問題だけど、少しでも関心を持ってくれたら良いと思う。
投稿者さん、ナイスです👏👏👏