春のうららかさを感じよう

介護のジカンー父親編⑥

施設にお見舞いに行ったある日、ベッドに横たわる父を見守っていると、突然アボジがすごい形相で立ち上がりしゃべった。この頃には日本語を全く忘れていて、たまに出てくる言葉は제주말オンリーだった。

父:경찰이 왐시니 혼저 안트레 들엉가. 몽케지 마랑 혼저!〈警察が来たから早く中に入れ(隠れろ)グズグズしないで早く!〉
そう言いながら、まるで船の中にいるかのようにバランスを取っている。

長女:アボジ、どうしたの?今、何て言った?
私:なんか警察が来たから隠れろだってさ
二女:昔を思い出してるみたいだよ

父は「혼저! 혼저!〈早く!早く!〉」と言いながらベッドの脇に隠れる。おそらく済州島から密航してきた船の中だと思い込んでいるらしい。

二女:アボジ、しっかりしてよ。ここは日本だよ。ほら、私たち分かる?
私:아방, 이제 경찰 돌아감시니 혼저 나옵서〈アボジ、もう警察は帰ったから早く出ておいで〉
私が仕事で習った제주말でそう言うと、父はやっと落ち着きを取り戻しベッドに横たわった。

長女:驚いた。何ごとかと思ったわよ
二女:アボジ、歩けるのね。今まで演技だったんじゃないの?
長女:火事場の馬鹿力ってやつかもね
私:認知症って遠い記憶しか残らないっていうけど、つらいことなんかさっさと忘れちゃえばいいのに

父は頭の中でどんなことを覚えているのだろう。故郷の제주도は覚えているのかな?あなたのご両親のことは覚えてる?母との恋は?…。なぜか胸が締め付けられそうになった。 私は父の人生をどれだけ知っているのだろう…。記憶を失った父に私は何も語ってあげられない。

この日を最後に父の口から言葉が消えた。제주말さえ忘れてしまったようだ。