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韓進グループの創建者 ―趙重勲

趙重勲会長の生長

停戦協定が結ばれたとはいえ、世情は決して安定した訳ではなかった。彼は乱れた社会情勢であれば、それだけに「信用」が大事と考え、それを積むための努力をおしまなかった。

いま一つ、彼が重視したのは、会社の車輌の整備管理であった。「運送業は整備が基本です。わが韓進商社は日ごろ整備を徹底して、あらゆる準備を完全にしておかねばなりません。」彼がいつも強調している言葉である。

こうして厚い信用と徹底した車輌管理によって事業は成長して行った。

趙会長は米8軍輸送担当官と接触するため多くの努力を払った。臆することなく堂々と、しかも会食の機会を作れば、彼らに最高の待遇をすることにより、次第に好意的な反応を受けることになった。こうして彼は米軍から輸送契約を結ぶことができた。それは韓進商社成立以来のもっとも大きな契約であった。

趙会長は、さらに破格の条件を提示したのである。「韓進商社は米軍需品を責任制輸送として引き受けます。輸送中に発生した事故に対して、いかなる理由であっても当社が弁償いたします。」

現場を視察する趙重勲 1960年代

契約金額は7万ドルであった。当時、韓国1人当の所得が100ドル以下であった時、それは大きな金額であった。人が不可能だとする時、彼は不可能に挑戦する道を選んだのである。

これより韓進商事は、さらに発展の道を歩み始めた。自社の車輌で物量を消化できず、他社の車輌に依頼することもあり、それが起こした事故についても、当然のように責任を負い、米軍担当官のさらなる信頼を得ることになった。

「ミスター趙!次の契約金額は十万ドルとしましょう」韓進商社は、名実共に米軍部隊の重要な活動部分に生まれ変わったのである。間もなく韓進商社は株式会社となり、経済の中心がソウルに移行する時期に当たり、韓進商社も仁川からソウルに会社を移して、本格的な企業活動を開始するのである。

韓進商社は米軍との輸送契約により毎年300%以上の売上を上げ、これによって会社発足3年目に当たる1960年には、年間外貨のみで220万ドルの収入を得たという。1960年、韓国の総輸出額が3280万ドルであったから、その6.7%に当たる訳である。また陸上輸送車は500台以上となるなど、驚くべき成長をとげたのである。

さらにヴェトナム戦争は、韓進にとって最高の機会となった。彼は度はずれた手腕を発揮して1966年5月より年間725万ドルで米軍需品輸送用役を行う条件の契約を結び、1967年には3400万ドルの再契約、1968年にも同額水準の再契約を結んだという。

ベトナムへの軍事物資の輸送に調印する趙重勲

そして1966~71年までの5年間に、ヴェトナムにおいてのみ総1億5000万ドルの収入を上げた。これは当時の韓国銀行の運営外貨総額が数千万ドルであったというから、米軍によるヴェトナム戦争が、韓進グループ発展の大きな機会を与えたといえるのである。

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4 COMMENTS

眠い💤

はじめと最後のページだけ読みました。🤭
あとは、夜です。

サッカーで寝不足だから朝の時間足りません‼️がんばれアルゼンチン❗

財閥って、そもそも~

バカだね~💦 実にバカ💦👀 一年くらい大韓航空のトイレ掃除でもやらしたら良いのに~💦 無給で!! もう見せしめだぁ~ バカ女🤦‍♂️
先代の「私の教育が間違った!」と言ってるけど、この女の素養のもんなんじゃない?
最後に、世襲の肯定意見と否定意見とあるけど、まずは、その人の適性はどうなのかを見極めないと~👀 でも、難しいかな?
先代の輝かしい功績に、まさに泥を塗っちゃったね😞 あ~あ💦

✈️

読みました。コンパクトにまとめられてはいましたが、創始者の運と努力と時代で財閥になり得たのだと理解しました。

ナッツ姫のその後が気になり検索してみました。夫にDV を訴えられ離婚したそうです。真相は分かりませんが、子どもの頃から本気で叱ってくれる人に恵まれなかったのかな~と思いました。

ザ・ピーナッツ

「ナッツ姫」事件のすぐ後に飛行機のエンジンが燃える事故がありました。
その記事のコメントが笑えました。エンジン火災の原因は「エンジンにナッツが詰まったんじゃね!?」。

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