初夏のうららかさを感じよう

韓進グループの創建者 ―趙重勲

「韓進海運」の設立

陸の道と空路を開拓してきた趙重勲は、1966年ヴェトナムの港で、コンテナを満載した米軍貨物船がクレーンによって荷揚げする効率の良さに驚き、このような海上運送こそ未来の仕事なのだと考えたことがあった。

しかし、その当時はわが国にはクレーンを備えたコンテナ専用船もなく、また仁川港には大きな船が接岸することも出来なかった。

1967年、彼は一度、海運業を始めたことがあったが、悪条件が重なり、一時中断を余儀なくされたのである。

その頃、干満の差が烈しく大きな船の接岸が不可能な仁川湊に関門式ドック(enclosed dock)の施設を作ろうという政府案が提起され、韓進にも投資に参与してくれと話があり、これによろこんで可なりの投資を行った。他の企業も積極的に参加して、1974年埠頭工事が完了したのであった。

1970年代は、政府の輸出強化政策によって国内交易の拡大と輸出入量の急増により、国際海運のための定期航路開設とコンテナ化による海上運送が要求され、海運船舶の改善、技術革新による国際競争に備え、苦闘がつづけられていた。

1974年5月、こうした環境の中で「韓進海運」設立され、1978年には韓国と中東間にコンテナ専用船が就航することになり、1979年には千隻のコンテナ専用船が極東ー北米間の航路に就くことになった。

また1986年には国内最大のコンテナ専用船である韓進ニューヨーク号を航路空白地帯であった北米東海岸へ就航させたのである。

1987年には、成績不振であった国内最長の歴史とノーハウを持つ大韓商船の併合をはたし、これによって韓進海運は名実共に国内最大の海運会社となった。

これらの成功によって韓進グループは財界順位8位となった。

エピローグ ─ 潔いさぎよい退任

韓進グループは、陸、海、空の路を連結することによって国の貿易に大きく寄与したし、国内の企業が生産した製品を輸送して、国民と諸国人を結びつけた役割は、誠に大きいものがあると認めねばならない。

「わたしは寝る時間の外は、一時も会社の仕事を忘れたことがない」と言いながら企業の発展に一生を捧げて来た趙ジュンフンであったが、いつしか76才となっていた。「企業家には停年はない」と引きつづき自己の活動に熱情を注いでいた。

ところが突然1999年4月15日、大韓航空機が上海空港で墜落事故を起こし、さらに間もなく貨物機の墜落事故が伝えられた。

趙会長はこれを深刻に考え、被害の処理と保証を十分行うことを指示しながら、責任者として潔く退任する決意をし、後任を長男のチョヤン趙亮 ホ鎬にまかせることにした。彼の兄弟は4男1女、それぞれ企業の四つの主要な部分を世襲させることになった。趙会長の死後、財団の分化過程は進められた。

彼にとって初めての静かな生活がつづいたが2002年11月17日、マスメディアは彼の死亡を伝え、その遺言として「1000億ウォンを公的財団に贈ること」が伝えられた。後にそれは輸送物流研究事業と教育事業の基金として使われることになったという。

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4 COMMENTS

眠い💤

はじめと最後のページだけ読みました。🤭
あとは、夜です。

サッカーで寝不足だから朝の時間足りません‼️がんばれアルゼンチン❗

財閥って、そもそも~

バカだね~💦 実にバカ💦👀 一年くらい大韓航空のトイレ掃除でもやらしたら良いのに~💦 無給で!! もう見せしめだぁ~ バカ女🤦‍♂️
先代の「私の教育が間違った!」と言ってるけど、この女の素養のもんなんじゃない?
最後に、世襲の肯定意見と否定意見とあるけど、まずは、その人の適性はどうなのかを見極めないと~👀 でも、難しいかな?
先代の輝かしい功績に、まさに泥を塗っちゃったね😞 あ~あ💦

✈️

読みました。コンパクトにまとめられてはいましたが、創始者の運と努力と時代で財閥になり得たのだと理解しました。

ナッツ姫のその後が気になり検索してみました。夫にDV を訴えられ離婚したそうです。真相は分かりませんが、子どもの頃から本気で叱ってくれる人に恵まれなかったのかな~と思いました。

ザ・ピーナッツ

「ナッツ姫」事件のすぐ後に飛行機のエンジンが燃える事故がありました。
その記事のコメントが笑えました。エンジン火災の原因は「エンジンにナッツが詰まったんじゃね!?」。

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