春のうららかさを感じよう

文化遺産の保存に一生を捧げるー全鎣弼

故国での出会い

澗松・全鎣弼は、大学が休暇となると憂いを共にし、未来を語りあえる人を求め、ソウルに帰った。彼がまず尋ねたのは徽文高普の時の美術の教師であった春谷・高羲東(1886-1965)であった。わが国最初の東京美術学校への留学生で、西洋画を専攻したけれども帰国して東洋画家になった人である。

彼は澗松の感性を早くから見抜き、それを愛して助言をおしまなかった。彼の紹介で澗松はついに運命的な人との出会いをすることになる。それは葦滄・呉世昌(1864-1953)との出会いであった。

呉世昌もソウル鐘路の出身。朝鮮王朝末期に国の開化を唱えて活躍し、亡国の後は3・1運動を主導した民族代表の一人となった人。父の呉慶錫は中国語の訳官で金玉均と共に国の開化のため努力した人で、実学派の金正喜(1786-1856)の学統を受け維いだ人であった。

そのため呉世昌も金正喜の学統の下に生長し、当代第一の学証学者で書芸家であり、広く深い芸術の鑑識眼をもつ学者で、民族文化財の蒐集とわが国の書画史の体系化を志し、ついに1928年、わが国で最初の書画史人名事典というべき『槿城書画徴』を出版した人である。

澗松はこの呉世昌と出会い、この人から学ぶことによって、民族文化財の保存と継承という一生のテーマを決定することになったのである。

こうして澗松の早稲田大学卒業(1930年)と共に、彼の民族文化財蒐集は本格化することになる。

ところで呉世昌は澗松のために、もう一つ重要なことを準備してくれたのである。それは李淳璜という正直一本の番頭を育て、澗松の書画骨董の蒐集を担当させたことである。澗松は何度か彼に仕事をまかせて見たが、その正直さと責任感、事務能力の正確さに満足し、それ以後は文化財蒐集のすべてをまかせることになった。

澗松は文化財の蒐集に当たって、気に入った物であれば一度も値切ることはせず、また売り手が物の価値を知らず安値で売ろうとすると、自身の正当と考える値段を付け、何倍の価を与えたのであった。

澗松は自らが表に出て買い入れをするのは避け、李淳璜を表に出していたが、李淳璜も澗松の方針をよく理解して、それに従ったので、骨董商は良い物が手に入ると、まず李淳璜の所に持ち込むようになり、蒐集作業は順調に進んだ。これをさらに能率的に行うため、澗松は朝鮮末葉からソウルにあった有名な老舗の古書店である「翰南書林を引き取り、李淳璜と書画に明るい人を選んで経営させたのである。

これは1932年頃であるが、これを契機に彼の蒐集はいっそう進むことになった。

さらに朝鮮に属住する有力な日本人コレクターから優れた骨董を集めるため、ソウルの有名な骨董商である温古堂の主人、新保喜三にも斡旋を頼むことにした。新保は澗松と接触を重ねる中、澗松が民族のために文化財の蒐集をするその使命感や愛族の純枠さを理解するようになり、これまた誠意をもって澗松の仕事を助けはじめたのであった。

端午風情 申潤福作

ある日、新保が耳よりの情報を持って来た。ある銀行の頭取で、有名なコレクターである森悟一氏が死亡し、その遺族の希望で、展示と競売を行う予定だという。1936年11月21日が展示予見日で競売は翌日と決定された。

競売品の写真を入手した新保が、急いで澗松に会いたいと連絡があり、会って見ると今度出品される「青華白磁陽刻辰砂鉄彩闌菊草虫紋瓶」の写貞を示しながら、どんなことがあろうと、これは入手すべきだという。これがあれば少し前に苦心して入手した「青磁象嵌雲鶴文梅瓶」と双璧をなし、陶磁器蒐集家としてこれ以上の名誉はあるまいというのだ(現在、共に国宝に指定されている)。

青磁象嵌雲鶴文梅瓶

澗松も直ちに同意した。どんなことがあっても入手しようと。ただ、この度は競売は財力のある多くの日本人がねらっており、中でも京都に本店を置き、北京、ロンドン、パリ、ニューヨークなど世界各地に支店を置いている日本第一の世界的骨董商ある山中商会の山中会長自らが出席して、これを狙うという。

ついに11月22日、澗松は目立たぬよう新保の後に座り、目指す青華瓶の出品を待った。満員の客が今か今かと待った青華瓶が出品されたのは、競売も中頃にさしかかり会場の雰囲気が高まってきた時であった。500円から始まった価格は、たちまち3千円から5千円となってしまった。皆が驚きの声をあげた。当時いかなる名品でも1点2千円を越えたことがなかったからである。大きな郡守の月給が70円、千円あれぱソウルの大きな屋敷が買えた時代である。呼び声は6千円を越え、7千円の声が上り、これで落着かと思われた時、それまで沈黙を守っていた新保が「8千円!」と叫んだ。売立人が8千円を二度叫び落着を告げようとした時、中頃の座席から「9千円!」と呼ぶ声がかかった。またも大幅の呼声である。人びとは新しい声の主に注目した。それは山中商会の会長であった。

青華白磁陽刻辰砂鉄彩闌菊草虫紋瓶

こうして二人の競走者が明らかになった。人々は固唾をのんで事の行方を見守った。

新保は自信満々と「1万円!」と呼ぶと場内は「ホウ」という嘆声が上がった。高さ41cmの瓶に1万円の価がつくとは、陶磁の歴史にかってないことであった。

火華を散らす「セリ合い」となった。呼声は5百円単位で上がって行き、新保が「14500円。と叫んだ時、山中側は疲れたように「14550円」と呼ぶのであった。峠は越したのである。新保が「14560円」と呼ぶと、山中は一度はそれに10円を付けたけれど、その声に力はなかった。新保が「14580円」と力強く叫んだが、それを越える声はなかった。

青華白磁陽刻辰砂鉄彩闌菊草虫紋瓶

売立人の競落棒が「タン!」と机を叩くや、思わず場内から嘆声と共に拍手が沸き起った。こうして歴史に残る競売は決着がついたのである。国際的な資本を相手にしての澗松の断固たる決意の表明であった。そこに居合わせた何人もの人が何十年も後にその時の様子を書き残している。それ程、強烈な印象を残した歴史的な神話を生んだ場面であった。その時、澗松はまだ弱冠31歳、その後も様ざまな苦難がつづくのではあるが。

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2 COMMENTS

ウェノム💦

名前が難しくて、読めなかった~👀💦
でも、ありがたい事ですね。本人の趣味とはいえ、このように保管してくれたから、今我々が鑑賞することができるんだもんね~😊
それにしても、ウェノムのために、どれだけの文化遺産が奪われたかと思うと、頭に来るねぇ~🤦‍♂️ ウェノム~ ウェノム~🤢

蝉しぐれ

바람 회원 で문근영が描いてた絵!
こう言う人が居たから、後世に伝わったのね!
在日にも高麗美術館を建てた人が居るよね!

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