春のうららかさを感じよう

文化遺産の保存に一生を捧げるー全鎣弼

今回は少し趣(おもむき)を変えて、朝鮮でも有名な富豪でありながら企業活動に力を入れることでなく、日帝の文化遺産の略奪に抵抗し、民族文化の継承と発展のため文化遺産の保存に努力した全鎣弼(1906-1962)の一生について見ることにしよう。

澗松・全鎣弼 遺影

全鎣弼の生い立ち

全鎣弼(チョン・ヒョンピル)の本貫は旌善(겅선) 、号は澗松(간송)で、ソウルの鐘路で生まれた。曾祖父の啓勲(1812-1890)は武官出身で正三品まで出世した人。この啓勲は、当時の両班が商業をさげすみ蔑視した時に、商業の重要性をいち早く悟り、鐘路中心街の「商権と銭債」を次第に拡大していき、ついにそれを一手に掌握したばかりか、その利益によってソウル周辺の土地をはじめ、黄海道延安、忠清道公州・瑞山地方の広大な農地を買い入れ、数万石の小作料を集める大地主となったのである。

曾祖父の啓勲は鐘路に大きな邸宅をかまえ、昌燁、昌烈という二人の子がいたが、この二人が啓勲の財産を引き継いだのである。

ところで昌烈には子供がいないため、昌燁の二人の子供、長男・泳基と命基の中、命基が昌烈の後を継ぎ、この二人は政府の高官として共に出世し、かつ、一つの大邸宅に住み巨富を誇りながら、さらに財産を殖やしていった。

われわれの主人公である全鎣弼は、この泳基の2男4女の末っ子で、遅く生まれたため一族の愛情を一身に受けることになるのだ。

全鎣弼1歳

ところが栄えに栄えたこの一族も20世紀に入り、国運の哀退と共に悲運がつづくことになる。二人の祖父と祖母は長寿であったけれども、あいついで亡くなり、さらに名目上、鎣弼の養父となっていた命基が10月に50歳で亡くなり、ついで全鎣弼の唯一の兄、14歳ちがいであった鎣ソル(ヒョンソル)が1919年11月、わずか28歳の若さで、継嗣もなく急逝するのである。澗松・鎣弼がわずか14歳の時であった。

こうして1919年は澗松にとって大きな運命の画期となった。家族にとっての二つの大きな不幸-養父と兄の死。そして、それに先立つ高宗の死と、3・1独立運動。鐘路を埋めつくす人々のデモと独立万歳の喚声。これらは幼い澗松の精神に忘れることのできない探刻な印象を刻み付けたのである。

そして、今や澗松はソウル第一といわれた生家と養家の唯一の嫡孫となり、当時の慣習法により将来は両家の全財産を相続する存在となったのであった。

1919年の家族の不幸を契機として、幸福に満ちた富豪の貴公子は、人生の富貴栄華とは何か、これからの自身と家族の将来について考えねばならなくなり、また高宗の死により国の運命についても関心をもって、次第に無邪気な福々しい少年から、寡黙で考えの深い憂いを知る青年へと変貌して行くのである。

また、祖父の死によって彼自身の生活環境も変わって行った。祖父は朝鮮の開化による新教育の必要を認めず、家に漢学の先生を呼び、漢文と経書(儒学の経典)を学ばせたのであった。祖父の死後、12歳になって、やっと父母と周囲の希望で於義洞公立普通学校(四年制の小学校)に入学することになった(当時は学齢期を過ぎた年長の生徒も多かった)。

ここで日本語とか算数、地理などの新学問を学び、新しい世界の動きも知った。何よりも多くの男女の友人と共に遊ぶことが出来るようになり、明るい人生の展望も開けることとなった。

また、幼時から学んだ漢字と経典の学習は決してマイナスの面ばかりを持つものではなかった。朝鮮語と日本語は、新学問の熟語を含めて、漢字に由来するものが多く、音と意味の理解は、新しい学問の理解に役立ったからである。

於義洞普通学校卒業式 1921 前から4列目、右側の白い周衣と白い帽子の学生が全鎣弼

1921年に同校を卒業。その卒業記念写真は後列右端に、前列の大きな体の生徒に隠れるように小柄で白い喪服を着た少年澗松が写っている。

さて、徽文(휘문)高等普通学校に進学した彼は、エリート校としての誇りを胸に、多士済々の学友と交わり、新しい学問に目を開かれ、かつ当時としては珍しいスポーツであった野球部に入り、これに熱中することになる。彼はすぐに徽文高を代表する選手として活躍し、何度も優勝をもたらしたのであった。特に日本の大阪に行き、野球の名門として知られた大阪中学を撃破して、全校を喜ばしたのだ。

また蹴球部にも属し、仲間たちと一緒に楽しく汗を流した。

野球部や蹴球部の対外試合の後の食事会では、ソウル第一の貴公子として、当然のように友人たちの旺盛な食欲の後始末をしたのである。

大阪中学に勝つ 2列左から2番目が全鎣弼

彼は、また、人に知られぬ他の一面をもつようになった。それは読書を好み、書店を次々と巡り、興味を引く本を買い出したことである。これは新刊書ばかりでなく古書店で何年か前の本や、さらには読む必要のない漢籍をも蔵書に加えて行くのである。

澗松は後に「蒐書漫録」という随筆で、「私の蒐書に大きな力となったのは、家族の理解があったからであろう。亡き父母も、私が腕に本をかかえて帰るととても喜ぱれ、顔をしかめられることは一度もなかった」と言っている。

彼には早くから、直接関心がなくとも、装丁が美しいとか、珍しい内容の本は、つい購入しておくという、何か美しいものを見ると手元に置くという審美眼・蒐集欲が幼いときからあったようである。

このような彼も、五年生となると上級校の進学が問題となってくる。国内では1923年には自主的に民立大学を設立しようとする運動が起こり始めたし、また専門学校ではあるが民族を代表する優れた学者を集めた延禧専門学校と普成専門学校が権威をもっていた。

日帝はこれらの動きに驚き、1924年京城帝大の予科を設置することによって民立大学設立を押さえようとしたのである。

澗松は初めから官権の支配する帝大に進学する気持ちはなく、植民地支配をする宗主国の首都東京の、それでも自由な学風が残っていると思われ、朝鮮近代文学の草分けとなった崔南善や李光洙が留学していた早稲田大学への進学を心に決めていたのである。

1926年、徽文高普を卒業すると、その年に希望通り、早稲田大学法学部に入学することができた。彼には初めての異国での学生生活が始まるのである。彼には以前から日本の首都である東京生活を通じて、大日本帝国を知っておきたいという気持ちを持っていたのである。

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2 COMMENTS

ウェノム💦

名前が難しくて、読めなかった~👀💦
でも、ありがたい事ですね。本人の趣味とはいえ、このように保管してくれたから、今我々が鑑賞することができるんだもんね~😊
それにしても、ウェノムのために、どれだけの文化遺産が奪われたかと思うと、頭に来るねぇ~🤦‍♂️ ウェノム~ ウェノム~🤢

蝉しぐれ

바람 회원 で문근영が描いてた絵!
こう言う人が居たから、後世に伝わったのね!
在日にも高麗美術館を建てた人が居るよね!

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