初夏のうららかさを感じよう

文化遺産の保存に一生を捧げるー全鎣弼

北壇荘と葆華閣の設立

文化財莵集を本格化してから、次にそれを保蔵し、研究をする施設が必要となる。適当な場所はないかと探していたのであるが、現在の城北区に1万坪の土地を見つけることができた。呉世昌が喜び、この地を北壇荘と名づけたのである。この土地はあるフランスの石油商が19世紀末に来て財をなし、この地に洋館を建て住んだ所である。

澗松はこの土地が気に入り、活動の根拠地が出来たことを喜んで、当時の名筆といわれる人にその懸額(ケンガク)を頼んでいる。また回りにあった韓屋を改装して表装の作業場を作り、買い入れた重要文書を表装し、桐箱を作って呉世昌に表書きを頼み、保存に万全を期した。1934年からのことである。

呉世昌と全鎣弼

さきの陶磁器と共に澗松の蒐集に権威を与えたのは、長く日本に滞在しながら高麗青磁の美しさに魅惑され、優秀な高麗古磁の莵集に心血を注いだジョン・ケズビー(Sir.Jhon Gadsby)のコレクションの購入である。

ジョン・ケズピーは英国の弁護士で、数十年間、東京に居住しながら弁護士として働き、かつ最高級の高麗青磁の蒐集は質量ともに当代最高秘のものとして識者に知られていた。

高齢となり故国に帰るかどうか。その時、蒐集品の処分は、一部か全部か。収集家たちは秘かに彼の動静を見守っていたのである。澗松も同様、ある日本の大物業者によく言い含めて、譲与の気配があれば逸早く通報してくれるよう手配をしておいたのだ。

秘かに待っていた報せが、ついにやって来た。「遠からずケスピーは、私に一任して、全部を処分するといっている。本人に会う日を電報で知らせるから準備されたし。」またと無い喜ばしい消息であった。

澗松はこのコレクション購入のため、急いで公州周辺の5千石を生産できる田圃を処分したのであった。(それが何十町歩となり、今の金で何百億円となるかはわからないのであるが)

ケズピーは25歳の青年弁護士として日本に来て、東京駅に近い三菱ピル街の一角に事務所をかまえ、次第に有力な弁護士として知られるようになったが、透徹した鑑識眼と情熱的な蒐集力によって質の高いコレクションを作り上げた。日本国内はもちろん、しばしばソウルに現れて骨董店巡りは言うまでもなく、業者に高額の謝礼を払って、収集家から希望する対象を入手することもしばしばであったという。

ついに東京から日時を知らせる電報が来て、渭松は勇躍出発した。東京駅に着いたのは奇しくも二・二六事件一年後の同日であった。彼は出迎えの業者にあわただしく「確かに全部処分するのだね」そして「何故処分するのか」ときくのだった。業者は「確かに全部を」そして「ケズビーは昨年の二・二六事件を見て、今後、日本は軍部の台頭を抑えられず、日本は遠からず米・英と全面戦争に向かうことが予測されるので、速やかに重要財産を処分し、帰国を準備する気になったのだ」と答えるのであった。

彼の邸宅は皇居の裏側に当り、庭に囲まれた瀟洒な建物であった。彼はソウルから来た青年を見て奇異な感じを持ったようであるが、いま熱心に陶磁器を集めている朝鮮の全鎣弼と聞いて、「ああ、澗松とは君のことか。良く聞いている」と歓迎してくれるのであった。彼も日本人が権力と金力をもって、理不尽に朝鮮の美術品を日本に持ってくることに反感をもち、朝鮮人コレクターが少しずつ増えていることを喜びたいと言うのであった。

金額は業者が澗松と相談し、かなりの額を提示し、ケズビーも満足し、澗松も納得のいくものであった。ケズビーは記念のため、高麗青磁陽刻牡丹紋餞盞1個と高麗青磁香盒1個を記念にいただくと言い、「あなたは若く健康だから、優れた貴国の古美術品を集め、世界に広く紹介して下さい」と激励し、澗松も「あなたが努力して集めた美術品を、あなたに劣らず精一杯大切にいたしましょう」と約束した。二人は古い友人のように親しくなった。

こうしてケズビーの蒐集品の一括収蔵によって澗松高麗磁器のコレクションは質的に世界一流のものとなった。

この時、国宝となった「青磁象嵌蓮池鴛鴦(エンオウ)紋浄瓶」をはじめ国宝3点、宝物3点を含む香炉、花瓶、大皿、酒杯など、初めからそのような巨大な蒐集を達成することは夢のようだといわれるコレクションを一度に収蔵することができたのである。

次に提議されるのは、ここにわが国最初の私立美術館を作り、これまで集めた文化財を展示し、人びとに民族的な誇りを持つようにすることであった。

日帝は1937年7月7日に蘆溝橋で中国軍を攻撃、中日戦争が始まり、日本軍は中国への全面侵略戦争を開始する。長期戦を予想して、日本は朝鮮の兵站基地化を急ぐと共に、1938年に朝鮮人陸軍特別志願兵制度を作り、朝鮮青年を軍隊に入隊するよう強要し、かつ朝鮮教育令を改悪して朝鮮語科目を全廃するのである。

すでに物資の統制が始まり、ソウルへの糧穀搬入も統制されるようになる時期に、澗松は美術館として最高の設備を目ざし、設計は朝鮮近代建築の開拓者である朴吉龍(1898-1943)が担当し、資材も階段は大理石を用い、展示ケースも有名なイタリア製品を輸入するなど、民族の誇りをかけて日本の物資統制に対抗したのである。

初めての私立美術館である葆華閣 1938.7.

ついに1938年7月5日、朝鮮に初めての私立美術館である葆華閣の上棟式がとり行われた。75歳の高齢となっていた呉世昌は、生前にこのような慶事に会えたことを喜び、定礎銘に次のように刻んだ。

「澗松・全君の葆華閣上楝式がとり行われた。喜びにたえず、銘を作り祝賀する。萬物が新建築を満たし、千秋の精華は、朝鮮の誇りである。人みなの誇り、子孫は長く保存したまえ。呉世昌」

現在「澗松美術館」となっているこの建物は、建築されてすでに80年を経ているが、何の故障もなく、その役割を果たしている。

葆華閣の完成は、当時暗雲ただよう朝鮮において、人ぴとの大きな喜びであった。その時、上棟式に集まった人士の写真を見ても、一流の人びとが集まり喜びを共にしたことが見て取れるのである。

藻華閣棟上式に参加した名上たち 右より四人目が澗松、その左が呉世昌

澗松は、この頃、呉世昌を通じて京城帝大で唯一人、文学部美学科を卒業し、朝鮮における美学、美術史の草分けとなった高裕燮(1905-1944)と交友が生じ、さらに高裕燮の弟子である黄寿永、泰弘燮、金元龍などの少壮気鋭の学者だちとしばしば接し、かれらの研究を何くれとなく助けたのであった。

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2 COMMENTS

ウェノム💦

名前が難しくて、読めなかった~👀💦
でも、ありがたい事ですね。本人の趣味とはいえ、このように保管してくれたから、今我々が鑑賞することができるんだもんね~😊
それにしても、ウェノムのために、どれだけの文化遺産が奪われたかと思うと、頭に来るねぇ~🤦‍♂️ ウェノム~ ウェノム~🤢

蝉しぐれ

바람 회원 で문근영が描いてた絵!
こう言う人が居たから、後世に伝わったのね!
在日にも高麗美術館を建てた人が居るよね!

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