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【東京朝高】アーカイブ写真①-草創期と東京朝鮮中学校の開校

東京朝鮮中高級学校は、愛国的な1世たちが、再び植民地の民になることを決して繰り返さないとの切なる思いを込めて、1946年10月5日に創立しました。しかし設立時には土地、建物を確保しなければならず困難を極めました。

入学式 1946.10.5

当時、朝連板橋支部の尹徳昆委員長は、朝連初等学院の運営に人一倍情熱を持ち、国家と民族が繁栄するには、教育をしっかりしなければならないとの持論を持っていました。彼は校舎として使える建物が無いか探しまわり、板橋区役所に「校舎を斡旋してほしい」と何度も要請を繰り返しました。

同胞の生活の問題や帰国問題など、区役所に足しげく訪ねていたので、区長や助役など区役所の職員たちと顔なじみになっていました。

東京朝鮮中学1期生
教室での勉強風景

そんなある日、区役所の職員から、以前日本軍の兵器廠として使われていた土地があるという話を聞きました。それを聞くや否や尹委員長は、区長との度重なる交渉を行ないます。

その土地は大蔵省の管轄下にありましたが、日本の敗戦後に東京都に移管され、東京都が管理を所在地の板橋区に任せた状態でした。板橋区は土地の使用許諾についても委任を受けていました。そして交渉の結果、朝鮮中学校の敷地に使うことができるようになったのです。

中等部第二回卒業式 1949年3月

板橋区長は関東財務局に旧兵器廠跡を朝鮮中学の敷地として使用できるように要請します。関東財務局王子出張所は尹委員長が提出した「雑種財産一時使用認可申請」を1946年9月20日受理し「建物使用許可」を承認します。こういう先人たちの熱い努力があって今日の学校があるのです。

1 COMMENT

母校の卒業生

母校の歴史に触れることが出来て感謝しています。土地の選定に情熱を燃やし、子供たちのために奔走する当時の大勢のアボジたちのおかげで、今日の東京朝高があるという事が分りますね、いい企画です。卒業して40数年の歳月が流れたいま、改めて母校の歴史を垣間見ることが出来たのを感謝してます。サイコーです。

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