李健熙はサムスン財団を一代にして築いた李秉喆の三男として、この世に生を受けたのであるが、二代目としてサムスン財団を受け継ぐことになるには、当然その人物のもつ強烈な個性と父親の経営スタイルを引継ぎながらも、彼個人の独特な経営スタイルが多くの人に認められたことの結果によるものであろう。
ここでは、彼の生長過程から浮び出てくるその個性や、生活方式の特徴、独特の経営スタイルについて考察して見ることにしよう。
李健熙の家族
家族は上から孟煕、昌煕、そして三男の健煕、そして四人の姉たちー仁煕、淑煕、順煕、徳煕と妹の明煕がいる。すなわち三男、五女ということになる。
彼は1942年1月9日、父親の実家のある宜寧に生れた。その時、父の李秉喆は大邱のソムン市場の近くで三星商会を経営していた。当時は青果や干物を扱う貿易会社として、経営も上向きになりつつあった。
その頃、家族はみな大邱に住んでおり、すでに六人もの兄姉がいて、母親の朴杜乙は、幼い健煕だけに構っていられず、健煕が乳離れすると宜寧の実家に預けねばならなかった。
したがって健煕は、子供の頃から父方の祖母をお母さんと呼びながら、乳母の手で育てられたのである。ちょうど乳母の家にも健煕くらいの娘がいて、健煕たちは兄妹のように育てられた。健煕は四才になると大邱の両親の家に帰された。
初めて実母に会った時、健煕は混乱した様である。それまで祖母を母と思っていたからだ。彼は母に会うと「おばさんは誰?」と尋ねたと伝えられている。また兄と姉たちがいたことを、その時初めて知ったのである。
健煕は大邱で幼稚園に通った。当時の李家は、曾祖母の代から貯蓄に努めたという。曾祖母は少しでもと節約に努め、一枚でも多くの布地を織るために機織りに専念した。その結果、曾祖母は400石の土地を手に入れ、さらに祖父は100石を増やしたのである。
この中で、兄の李ピョンガクが300石を、そして弟の李秉喆が200石を受け継いだのである。
それでも大邱の家はとても狭く、4畳の部屋が三つと六畳間が一つだけであった。この家に父親夫妻と三男五女、使用人たちが暮していたのである。
李健熙が幼稚園の頃から李秉喆は会社の経営が忙しく、兄たちはすでに日本に留学していたため、家族全員が揃うことは珍しかった。健熙が中学三年の時、初めて家族全員が集まったので記念写真を撮ったという。
父親の事業拡大のため、1947年5月にソウルに上京。鐘路区恵化洞に六十坪の家を購入し、翌年には鐘路二街に貿易会社の三星物産公司を設立した。健熙は鐘路にある恵化小学校に通うことになった。
ところが恵化小学校二年生の時、朝鮮戦争が勃発した。避難しそびれた李秉喆一家は、新しい労働党政権の下で三ヶ月間、厳しい生活を送ることになった。父が持っていて自慢の種であった高級車も没収された。1950年9月15日、マッカーサー将軍による仁川上陸作戦が成功し、ソウルが米軍に占領されると、ソウルでの不安な生活に嫌気がさしていた一家は、南方の馬山に引っ越すことにした。静かな馬山ではあったが、商取引には向かない町であった。
ふたたび大邱に引っ越したが、父は事業の発展をねらってさらに釡山への転出を図ったのである。東光洞に店舗を探し、古鉄回収業と砂糖や肥料の輸入業を始めたのである。健煕はこうして、小学校だけで5回も転校を経験したという。
「健煕が天井からぶら下げた飛行機や、レールを走る模型列車など、当時珍しかったおもちゃを持って来て、一緒に遊んだ記憶はあるが、口数も少なく、いたずらもしない子供であったから、他のことはあまり覚えていない」ー釡山師範付属小で、四∙五年生を共に過ごした権根述『ハンギョレ新聞』前社長の話である。
父秉喆が釜山で商機を見つけ、1950年代に事業を発展させていたから、高いおもちゃも買ってもらえたはずであるが、彼にとっておもちゃは遊ぶだけのものではなく、分解して、その仕組みを研究するためのものになっていた。健煕だけでなく、兄たちもそうであった。彼ら三兄弟は珍しいおもちゃがあると、遊んでから分解し、また組み立てることを楽しんだ。
この趣味は大きくなってからも続き、健煕はカメラやVTRまで分解し、さらに自動車まで分解、組み立てをするようになった。
子供の頃から健煕は無口で、一人でおもちゃは分解して遊ぶことが好きな、内気なタイプであった。これは父譲りの性格であろう。父も一人で黙々と考え、実行するタイプであった。健煕も父に似てはにかみ屋で、人前に出ることを嫌がる性格である。これは子供の頃から変わっていないようである。
幼くして留学
健煕は小学校五年生であった1953年に東京に留学することとなった。父が「先進国を見て学んでこい」と背中を押したのである。すでに二人の兄が東京に留学していたとはいえ、普通の父母では出来ない決断である。
長兄の孟煕は、東京大学農学部に在籍しており、次兄の昌煕も1952年から暁星グループの趙錫来(のち会長)と共に学習院を経て、早稲田大学に通っていた。
当面、健煕は次兄の昌煕と日本人の家政婦と暮しながら、東京の小学校に通うことになった。最初の一年間、健煕は日本語に苦労した。また、国では五つの小学校を転々としたため、勉強の基礎も出来ていなかったので、小学校の勉強を一からやり直さねばならなかった。そのうえ、当時朝鮮・韓国に対する差別も激しかった。
友達もなく、家には帰りを待ってくれる両親もいなかった。次兄とは9才も離れており、一緒に遊んでくれる人もいなかった。
「生れた時から家族と離れて暮らすことが多く、内気な性格になった。…一人で考え事をすることが多く、…深く考えるくせがついてしまった。…もっとも敏感な時期に感じていたのは、差別や憤怒、寂しさ、両親に会いたいという思いばかりだった。」
彼のインタビューの一部である。
中学一年の時、かれは犬を飼いはじめた。それ以来、犬は彼の一生の友となった。「嘘をつかず、裏切ることのもないから」というが、さみしかった留学のころ友達代わりになってくれたからであろう。のちに彼は当時格安で買うことが出来た珍島犬を30匹も集め、繁殖させ150匹にまで増やした。そして、その中から3%だけの純血の珍島犬を選び出したのである。趣味をビジネスに変えるのは彼の得意技である。
1979年には、珍島犬愛好協会を設立し、品評会を開き、その品質向上と値段のつり上げをはかった。さらに、北の名犬である豊山犬を入手して繁殖させたり、それらの飼い犬を訓練して、必要とする各機関に寄贈している。
彼の留学で見過ごすことが出来ないのは、その間に千本を越える映画を見ていることである。誰も共に語る友人もなかったので、独りで楽しめる映画館で多くの時間を過ごしたのである。当時、日本には黒沢明、木下恵介、今井正、溝口健二などの名監督が名を連ね、名作が上映されていたし、また場末の五番館といわれる映画館では、朝九時から夜十時まで一日に8タイトルの映画が格安の入場料で上映されていた。
彼は水曜と土曜は午後だけ、日曜など休みの日は、朝九時から夜の十時まで、弁当持参で少なくとも四本以上を見たのだ。こうして三年にわたる留学の間に1200以上の映画を見る映画狂となったのである。しかもその鑑賞法も独特なものがあった。つまり、主人公の立場だけでなく、わき役や、登場人物のそれぞれの立場から見ることによって、映画の一つ一つが「小さな世界」となっていることが解り、物事を立体的にとらえる「思考の枠組み」が形成されていることに気付いたのである。
物事を多面的にとらえる能力がこうして養われ、それが後の事業経営に役立つことになった。
健煕は小学校五,六年を終え、中学に入学した。この三年間に、映画以外に興味を示したものにレスリングがある。当時、彗星のように現れ、爆発的な人気を集めたのが力道山である。彼が巨大な肉体をもつアメリカのプロレスラーの繰り返す反則に耐え切れず、ついに伝家の宝刀である「空手チョップ」で相手を倒す瞬間を、日本人は力道山イコール日本代表として喝采を呼び、在日する朝鮮∙韓国人は彼をひそかに自民族の代表として、その力闘に快哉を叫んだのである。
健煕も人知れず、力道山を自民族の代表として、力闘する彼を、当時普及しはじていたテレビを通して熱烈に応援したのであろう。中学一年を終えて帰国し、ソウル師大付属中学に編入、中学卒業後、同付属高校入学と同時にレスリング部に入部した。学業に余裕ができるのを待ちかねての入部であった。ウエルター級選手として全国大会で入賞したこともあるが、残念ながらレスリング生活は二年で終わることになった。練習で額を切り、家族がレスリングを続けることに反対したからである。
のちに彼はレスリング協会の会長やIOC委員をつとめ、韓国レスリング選手の強化に尽力した。
彼が二日も寝ずに十時間の会議を開いたり、ゴルフ場でつづけて1500球もの打ち放し練習が出来るのも、レスリングで鍛えられた体力のおかげである。その他、彼は乗馬、ゴルフ、卓球などをこなす、かなりのスポーツマニアなのである。
日本へ再留学
1961年のことだ。ふたたび李秉喆は健煕に「先進国をまなべ」と言った。すでに彼は延世大学校に合格し、学費を払い、教科書も買っていた。しかし、父は日本留学と商学部をすすめながら、こう言うのであった。
「お前には企業経営は向かないと思うが、マスコミはどうだ?」
そのすすめに、健煕はただ「わかりました」と答えたという。
父が健煕にマスコミの話をしたのは、すでに彼にマスコミ関連企業をいくつか任せようと思っていたからである。彼は早稲田大学を卒業した後、アメリカのジョージワシントン大学のビジネススクールでの一年半の留学を終えて帰国した時には、父はすでに東洋放送(TBC)を設立していたのである。
アメリカ留学中は、車に熱中した。何度も車を乗り回して、構造と特徴も把握し、きれいに分解、掃除した後、買った時よりも高値で転売し、次の車に移るのであった。自動車は二万個を超える部品を組み合わせた機械である。それを分解、組み立てができるようになるためには、かなりの知識と資質が必要である。アメリカで車を分解、組み立ての過程で、車の部品の30%が電機と電子製品であることが解った。そして今後の車は、電機と電子製品の依存率は50%を超えるだろうと考えたのである。
サムスングループはサムスン電子を中核企業としており、まさにその電機や電子技術を駆使して一流の車を生産してみたいという野心が健煕にはあったのである。これこそ彼が自動車産業に進出しようとした理由なのである。結局、自動車産業への進出は、IMF金融危機の中、政府の規制によって失敗に終わったけれども、彼の車についての造詣は、その後の経営活動に大きく寄与することになる。
彼の家に招かれた技術者は、日本人だけでも数百人にのぼるといわれる。こうした努力のおかげで、彼は電子製品について詳しく知る経営者となることができたのだ。
初の職場「東洋放送」へ
彼が帰国したのは1966年、26才の時である。帰国後、彼は研修社員としてサムスンの秘書室で働いた。彼の仕事は、その日の朝刊からサムスンに関する記事を探し出し、それに赤線を引いて父の李秉喆がすぐわかるようにすることだった。そして父に随行し、かつ現場で実務を学んだのである。
また、当時東洋放送の会長をつとめていた洪璡基(ジンギ)の長女、洪羅喜と結婚した。
1968年12月、彼は公式に東洋放送に理事として入社した。当時の東洋放送の会長は義父の洪璡基であったが、その下で、彼は8時に出勤し、夜の10時半まで働いた。東洋放送は開局して二年足らずの新生テレビ局であり、一日も早く軌道に乗せねばならなかった。
彼は映画狂であったから、テレビの視聴率はドラマが必要であり、この部門でトップを獲得しなければと考えた。そのためには主役はもちろんであるけれども、主役の役割を際立たせるのは、良い脇役がなければならない考え、当時名のある脇役を充分な報酬を保証して確保し、立派なドラマを作り上げて、他のテレビ局を圧倒し、時には視聴率が80%に達する番組を作り上げたのである。視聴率が高くなれば広告収入は多くなり、東洋放送の業績は順調に展開して行った。
一方、彼は出版メディアでもめざましい活路を開いた。新聞『中央日報』を基本としながら、彼が中心となって創刊した月刊誌『女性中央』と週刊誌『週刊中央』は大きな注目を集めた。
約十年間にわたり東洋放送と『中央日報』の理事を勤めた李健煕は、1970年代半ばから「半導体」という新たなビジネスをはじめた。
現代工業の生命の核心となる半導体の重要性に、いち早く着眼し、半導体産業にしようとした点を見ても、健煕の独創的な企業精神が理解されよう。1974年、彼は李秉喆に半導体産業に進出することを提案したのであるが、父は時期尚早とこれを退けた。膨大な資本を要し、サムスンがそれまで関わってきた事業とは全く異なる産業であるからである。
やむなく彼は富川(プチョン)にある韓国半導体という小さな会社を4億ウオンの私財を投げ打って買収し、これに賭けたのである。
現在、サムスン電子がサムスン財団の中心企業であり、半導体こそ韓国経済を支える主産業の一つであることを思えば、韓国産業史にも歴史があることを実感せざるをえない。
へぇ~ 7人兄弟?👀💦 へぇ~ 学習院と早稲田?👀 へぇ~ 東洋放送?👀
へぇ~ 犬のブリーダー?👀 へぇ~ レスリング?👀
しらなんだ~💦
しかし、財閥のトップになる人は、考え方がしっかりしてるね~😊
長かったけど根気よく読みました。
とても面白かったです。
成功者の並みならね観察力と行動力に感動の一言です。