春のうららかさを感じよう

サムスンの経営を再建した二代目ー李健熙

「第二の創業」を宣言

1987年12月、李健煕は社長団の信任を得て、サムスングループの後継者と認められた。この冬は、あわただしく終り、1988年を迎えた。この年は李健熙が会長としてサムスン大財閥の経営を始めた年となったし、また1988年はサムスンの創立50周年でもあった。

冷蔵庫の底をチェックしながら欠陥品の有無を確かめている李会長

1988年3月、李健煕はサムスンの「第二の創業」を宣言した。

彼は第二の創業のため新規事業を進めると同時に、事業再編を開始すると発表した。新規事業とは、宇宙航空産業と遺伝子工学分野および高分子化学分野への進出を意味し、事業再編とは、電子と半導体、通信分野を一つに合併し、経営効率を高めることであった。

この「第二の創業」に伴う事業再編こそが、今日のサムスン電子が世界的な家電、情報通信メーカーとなる基盤を築いたのである。

しかし、事業再編と新体制の確立は予想以上に難しかった。何よりも、この50年間でき上がった「強固な体質」を改革することは困難であった。

当時、サムスンの人々は、優秀な経営者李秉喆が50年間にわたり堅実に経営する韓国最大の財閥であり、国内でもっとも優れた財団であると自負していた。しかし、新会長の眼から見ると、これは単なる錯覚であって、このまま何も変らなければ、サムスンは消滅してしまうのではないかと危機感に襲われていたのである。

前会長は経営を円滑に運営するために、旧日本軍の情報収集と分析および計画案の組織であった参謀本部をまねて「秘書室」という大規模な組織を作り、これに依拠して財団を運営してきた。新会長はサムスンの改革には、まず秘書室の改革が必要だと考えた。秘書室では、全般に「質よりも量」という考えが支配していたのである。当時、秘書室の責任者は李秉喆の補佐役を12年間も勤めてきた蘇秉海(ソビョンヘ)室長であった。

1990年12月、李健煕はこの蘇秉海をサムスン生命の副会長に転出させ、新しい秘書室長に第一製糖、第一合繊、サムスン生命の社長を歴任した李洙彬(リスビン)を起用するという人事を断行した。

その頃、日本人の技術顧問がサムスングループの問題点を指摘し、新会長に報告書を送ってきた。これがグループ内部で大きな反響を呼び起こした。

「サムスン電子にはサムスン病がある。社内は無計画で浪費癖があり、何かに徹底するわけでもなく、すべては具体性に欠けている。…サムスン病を治さなければサムスンはつぶれる…」

彼は、さらに「技術者は積極性に欠け、日本企業のコピー製品を作り続けている。電子部門の技術レベルも低く、開発スピードも遅い。技術研究所も基礎研究の段階から先に進んでいない…」などと指摘していた。

驚いた李健煕会長はサムスン電子の会長を呼び、「なぜこのような実情を報告しなかったのだ!」と叱責し、報告書をグループの役員に回覧させ、対策を練るよう指示した。

このような報告書は、その後も提起された。とくに製品のデザインの問題点につき、何度も意見が提出されたが無視されつづけた。李健煕は、サムスン電子に残るこのような実態に驚き、激怒した。25年もサムスンの中枢にいながら、このような指摘をこれまで聞いたことがない自分にも腹が立つのである。

それ以来、彼は日本人の技術顧問たちに、サムスンで働きながら感じた点を書面で提出するように要請した。彼らが指摘した問題点は次のようなものであった。

当時の問題点

 個々人は優秀だが、技術内容が共有されていない。
 現状に満足して挑戦を避けるので、創造力に欠けている。
 韓国企業は対処療法しか考えないので、問題発生から解決まで時間がかかる。
 サムスンの重役たちは性急で、実績と結果だけで評価する。
 日本の研究所では、生き残りをかけた研究努力が続けられているのに、サムスンはそうでない。
 韓国には若者のパワーがある。この若者たちを活用することは経営者の使命である。

李健熙会長は技術顧問たちの提出した問題点を整理して、課長級以上の幹部たちに回覧させた。1988年に「第二の創業」を宣言したサムスンであったが、「第二の創業」以前に解決すべき問題を山のように抱えていたのだ。

彼は、「1981年から今まで、グループ各社と秘書室に指示した内容をまとめ、その指示がどのように実行されたのか、会社別にまとめ報告せよ」と指示した。

この確認のために各社の企画室から3~5人ずつ動員し、「湖巌生活館」で合宿の作業が行われた。結果は驚くべきものであった。会長の指示はほとんど実行されず、また指示の伝達されないことも多かったのである。

「管理のサムスン」も、実態はこの程度の水準であることが暴露された。

これらの問題点のために、研究開発費や人件費は増加しているのに、売上の上昇が利益の増大に結びつかない悪循環が繰り返されていたのである。

従業員たちの意識構造も改革が必要であった。時代は国際化へと向かっているのに、従業員たちは韓国トップの地位に満足していた。流通市場開放でソニーや松下の製品が上陸してきた場合の対応策も秘書室にはなかったのである。

李秉喆は「集権型組織」の象徴のようなサムスンを作ったが、世の中は「分権型組織」に移行していた。すでに日本は1970年代に移行を終わっていた。1980年代後半、コンピュータの普及によって世界の組織が変化していた時、韓国では依然としてトップダウン式の集権型組織のままであった。

「第二の創業」を深化発展させて、新しい血を巡らせる必要性が切実に求められていた。

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2 COMMENTS

名前はサムスン💕

へぇ~ 7人兄弟?👀💦 へぇ~ 学習院と早稲田?👀 へぇ~ 東洋放送?👀
へぇ~ 犬のブリーダー?👀 へぇ~ レスリング?👀
しらなんだ~💦
しかし、財閥のトップになる人は、考え方がしっかりしてるね~😊

故郷は釜山の李家

長かったけど根気よく読みました。
とても面白かったです。
成功者の並みならね観察力と行動力に感動の一言です。

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