放浪の末、ついに軍人の道へ
機械工学を学ぼうと決心した彼であるので、故国に帰り、勉強を続ける道をさがしソウルにも行って見たが、ソウルはまだ混乱がつづき勉学の方途が見出せなかった。また、故郷の林浪里に帰っても働く場所がなかった。稼動している工場もなかった。
ついに再び玄界灘を越え、東京に行って見た。東京の市民生活は、さらに混乱を増している様であり、母校となるべき早稲田大学もいまだ安着して学習できる場所ではなかった。再び故郷に帰り、あれこれ試みては失敗を重ねた。
ついに彼の眼に「国防警備隊」という軍人の道が浮かび上がってきた。米軍政府は南朝鮮に単独政府樹立をはかりながら韓国軍の将校養成を急いでいたのである。すでに南朝鮮警備士官学校は1946年5月よりみすぼらしい姿であるが1期生80名で開校していたのである。
1948年5月6日、警備士官学校6期生は、国防警備隊の下士官と兵士の中から、国語、国史、英語、数学、論文による試験により選抜された4倍の競争率、総277名が入学。3ヶ月の短期士官教育を受け、7月28日、朴泰俊も少尉の階級章を授与されて任官。かなりきつい訓練とひどい素食を彼は耐え抜いた。
また、この学生たちに難しい弾道学を教え、複雑な問題をすらすら解いた朴泰俊を記憶に止めた教官がいた。朴正熙教官である。この二人の関係は、その後20年間、深く結び合うことになるのだ。
長い。でも面白い。続きは夜に‥。
内容はよくわからないけど、表情が~まさに鉄ですね~👀
少し、室伏に似てる~ ハンマー投げの室伏👀😁
記事にもあるように、「総合的な考察」を望みます。
韓国発展の為に果たした役割は確かに大きい。
しかし、韓国が民主化に大きく遅れを取った責任もあるのではないかと感じる。
片手落ち。
この間に韓国の若者の命を奪い、一般国民の気持ちをないがしろにした罪は重い気がします。