卒業の春…再会の準備を始めよう

韓国の鋼鉄王ー朴泰俊

浦項製鉄の躍進

以上のような管理者、技術者、労働者の体制をととのえる作業と同時に、具体的な工場の建設、および労働者の住む住宅の建設が着々と進行して行った。その過程を年表の形で概括することにしよう。


1961.5.16 朴正熙らの軍事クーデター発生。その国家再建最高会議の議長秘書室長となる。
同11.12 朴正熙訪日。韓日会談の早期妥結で合意。
1963.10.15 大統領選挙で朴正熙当選。
同12.17 大統領に就任
1964.3.9 「対日屈辱外交反対汎国民闘争委員会」を結成。
同6.3 ソウルに非常戒厳令を公布し、韓日会談反対運動を弾圧。
──朴泰俊は特使として訪日。北海道から九州まで10ヶ月間、日本の要人を訪問。韓日会談の早期妥結の根回しをする。
1965.6.22 韓日基本条約及び諸協定本調印。(対日請求権や漁業協定での大巾の妥協と譲歩は国民の間に憤激を呼び起こした。
1968 浦項総合製鉄株式会社(後ポスコposco)発足。
初代社長に就任。工場用地造成と社員住宅団地建設の工事を始める。
1969 朴社長が対日請求権資金の一部を、浦項第1期建設資金に転用する考えを発表。
1972 迎日湾に工場を建設し、中厚板工場を竣工する(7.14)
始めの製品をアメリカに出荷(7.31)
1973.6.9 第一高炉の初の鋼鉄生産に成功
7.3一貫した総合製鉄工場完工(年間103万t体制)
1974 操業6ヶ月で黒字体制確立。年間黒字242億ウォン実現。第一高炉鉄鋼100万t突破。
1974.12.1 輸出1億ドル、製品出荷100万t達成
1977 技術研究所設立
1980 浦項製鉄中学開校
1981 浦項製鉄高校開校
1983 全羅南道光陽郡の海に面する光陽の地に将来、主工場となる光陽製鉄所の開所式
1987 浦項工大 第1期入学式
光陽1期設備総合竣工(年産2700万t体制総合1220万t体制確立)、総合設備管理電算システム開発
1988 光陽2期設備竣工(年産540万t体制確立)
1989 浦項製鉄累計出鋼量1億t達成
1990 民政党代表就任
1992(65歳)浦鉄会長辞退、名誉会長就任
2000(73歳)国務総理就任。5.19 総理辞任。ポスコ民営化完了。
2004 ポスコ名誉会長
2011.12.13(84歳)死去


以上の簡単な年表を通しても、朴泰俊のさまざまな局面での奮闘と紆余曲折が推測されるが、総体的には韓国国民の向上心に基づく、驚くべき経済的な発展と歩調と共にする明るい成功の一生であったといえよう。

ただ、1964年、韓日会談における早期妥結のための根まわし工作(賠償問題をさけての)や、2000年国務総理に就任期のいくつかの疑惑を受けての5ヶ月後の辞任に見られるように、開発独裁時代の功績のみが強調され、影の部分に対する社会的省察が行われなかった結果が、今日の財閥支配体制に至る基礎になったのではないかという意見もあり、奮闘の一生、指揮の正確性、清廉潔白、などとのみ評価して良いのか、もう一歩進めて社会歴史的な背景を含めて、総合的な考察が要求されるのではないかと思われる。

われわれと共に困難な時代を歩んできた同時代人としての共感されることの多い一生であった。

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3 COMMENTS

朝日新聞👍

長い。でも面白い。続きは夜に‥。

今は政治家💦

内容はよくわからないけど、表情が~まさに鉄ですね~👀
少し、室伏に似てる~ ハンマー投げの室伏👀😁 

個人的感想

記事にもあるように、「総合的な考察」を望みます。

韓国発展の為に果たした役割は確かに大きい。
しかし、韓国が民主化に大きく遅れを取った責任もあるのではないかと感じる。
片手落ち。

この間に韓国の若者の命を奪い、一般国民の気持ちをないがしろにした罪は重い気がします。

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