春のうららかさを感じよう

韓国の鋼鉄王ー朴泰俊

民族の悲劇を生き抜き、予備校退官

朴泰俊は運の強い人間であった。1948年の麗水・順天事件につづく粛軍の嵐、それに続く左翼関連嫌疑事件からも遠い場所にいた。さらに朝鮮戦争にも参加したけれども、傷一つ負うことなく生き残ることができた。

彼は思うところがあって陸軍大学入学を志望した。1953年11月、朴泰俊中領は5期生として陸軍大学に入学した。入学したのは56名、択ばれて軍隊の根幹となるという使命感もあった。充実した学科と訓練を経て、翌年6月17日、卒業式となる。主席卒業者は朴泰俊中領。軍の各部署は、この金時計授与者に注目した。結局、彼は陸軍士官学校教務所長となった。学生たちは彼を「金時計」と呼んだ。

そして、この間に梨花女大をでた安東金氏である玉子嬢と結婚した。(1957年)

そして国防大学教授、国防部人事科長などを歴任している朴泰俊に対して、朴正熙は常に注目していたのであった。

1960年4月19日、ソウルで学生、市民の反政府デモが起こり、それが南半部全域に拡大して行った。李承晩が退陣して、ハワイに逃れ、許政暫定内閣が成立したが、無能であった。1961年5月18日、朴正熙らの軍事クーデターが発生。7月3日、ついに最高会議議長に朴正熙が就任した。

朴正熙は軍事クーデターの失敗も考慮して、朴泰俊を軍事革命委員会の名簿にも入れないほど大事にしていた。朴正熙はクーデターに成功すると、すぐ朴泰俊を呼び、「長期間計画して来たわれわれの歴史的任務が始まった。君が秘書室長をやってくれ。まず何よりも国の骨格を正し、国民を貧国から救い出すことだ。至急に経済開発計画を樹立することだ。」

朴正熙は国家再建最高会議議長に就任し、(1961年7月)最高指導者になると、朴泰俊を議長秘書室長、兼財政経済委員会商工担当最高委員に任命した。

朴泰俊は自身の一生が新しい世界へ進む分かれ道に立っているのだと覚った。

1961年11月、朴正熙は日本を訪問し、日韓会談の早期妥結で合意した。この前提のことで1962年1月、韓国第1次経済開発5ヶ年計画を確定。1963年10月、朴正熙が大統領選挙で当選。国内での対日屈辱外交反対の声が高まる中を、この反対を押し切って国交正常化が進められた。

朴正熙は大統領に就任すると、すぐに朴泰俊を呼び、自民党副総裁の大野伴睦からの親書を見せた。内容は、韓国が緊急に取り組むべきことは、日韓国交正常化を実現し、対日請求権資金を受け入れて経済開発5ヵ年計画の資金として活用すべきであるというもの。(賠償問題は出さない)朴正熙と泰俊も同感であった。

また、大野は大統領特使の派遣を要請していた。そして特使の条件としては、①大統領がもっとも信頼している人物であること。②通訳なしに自由に対話できる人物であること。③可能ならば日本で学校に通った事のある人物が望ましいこと、を挙げていた。

朴泰俊は朴正熙から、「これは君しかいない」と特使に指名され、1964年1月初旬、羽田空港に到着した。それは東京がオリンピックの準備に忙しい時期であった。羽田から都心までは東洋初のモノレールが敷かれ、東京-大阪間は時速250kmの新幹線工事が進められていた。彼は戦後日本の急速な発展に驚くばかりであった。

朴泰俊はまず日ごろ尊敬している安岡まさひろ(1898~1983)を訪ねた。彼は東大の法科を卒業後、伯爵酒井忠正の援助を得て亜細亜文化協会を組織し、陽明学研究会を通じて、広く華族や企業家に師として尊敬され、官僚や政財界人に大きな影響力を持っていたからである。

安岡正篤先生は快く、朴泰俊の希望を受け入れ、影響力のある多数の政界・財界の指導者を紹介してくれた。彼らと会うことによって、日本各界の人々と意見を交換し、韓国側の意のある所を伝え、韓日国交正常化のための大きな前提作りに成功したのである。

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3 COMMENTS

朝日新聞👍

長い。でも面白い。続きは夜に‥。

今は政治家💦

内容はよくわからないけど、表情が~まさに鉄ですね~👀
少し、室伏に似てる~ ハンマー投げの室伏👀😁 

個人的感想

記事にもあるように、「総合的な考察」を望みます。

韓国発展の為に果たした役割は確かに大きい。
しかし、韓国が民主化に大きく遅れを取った責任もあるのではないかと感じる。
片手落ち。

この間に韓国の若者の命を奪い、一般国民の気持ちをないがしろにした罪は重い気がします。

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