辛格浩の少年時代
このような歴史の大変動期に生まれた辛格浩であるが、その少年時代には、まだ、かっての良き時代の朝鮮が残っていた。大家族とはいえ、暖かい家庭と家族がおり、村人たちとの心温まる交流があった。
家では次々と弟たちが生まれてきたが、学令になると父母は近くのサムドン普通学校(4年制)に通わせてくれた。
少年期の彼は、特別に目立つこともなく、秀才といわれることもない平凡な田舎の少年であったようである。学業も中間の成績であった。学校から帰ると他の家の子供と同様、宿題より、まず黒い麦飯に、おかずといえば青とうがらしにみそをつけてかじりながら、白湯で麦飯を流し込むと休む間もなく、草鞋の足にチゲを背負い、裏山に登って、まず薪を一荷集めてきては、次いで牛小屋の牛を引き出し、あちらこちら草の生えている場所を探して食わせるのが仕事となっていたのである。
こうして4年制のサムドン普通学校を終えた少年は父親と親族の助けもあり、往復3里以上も離れた6年制の彦陽公立学校への編入を許されたのである。教科書を風呂敷に包み背中に背負い、でこぼこの田舎道や新しく開かれた新開路を、毎日駆けるようにして通ったのである。時には新開路を走る日本人の車のガソリンのおかしな臭いをかぎながら、何時あんな車に乗ることができるだろうか、などと考えたことであった。
この期間にも、民衆の生活はますます困窮の度合いを増していった。朝鮮総督府は植民地支配体制を強化するため、行政、立法、司法、軍事など一切の独裁権を持つ憲兵・警察力を背景に徹底した武断強圧政策が1919年の3・1独立運動による全民族的反撃を受けるまで続き、そして次に従来の「武断統治」を「文化統治」に改めると宣伝しつつ、いっそう巧妙な民族分断政策により、一方では親日派を養成し、かつ一方では良心的な民族主義者をも弾圧して、朝鮮をさらに政治、経済、文化的に皇民化させ植民地体制を確立して行くのである。
多くの農民が土地を失い、小作農に転落するか、流浪民として都市の貧民窟へと流れて行った。旧来の社会が急速に解体されて行く過程に入って行くのだ。
悪名高い「治安維持法」が公布・施行されるのは1925年5月のことである。
辛格浩の家庭も、他の人々と同様、生活は困窮の苦しみを増して行ったのであろう。彼の住む蔚山地区も、他の地区と同様、人々の生活は破綻し、農業も漁業も零落し、新しい産業も育つ見込みはなかった。長男として、一家の前途をどうするか、彼は深刻に考えざるを得なかった。小学校を卒業した後、1941年に日本に渡る決意するまでの期間、故郷でどのように過ごしたか明らかにする資料はないが、責任感の強い長男として、彼は人に明かすことができない数々の苦労を重ねたと思われる。
ついに1941年春、19才の彼は故郷での苦闘を打ち切り、日本帝国の首都東京で伸るか反るか、自己の運命開拓の道をそこに懸けてみようと決意するのである。
国権はすでに奪われて久しく、自国の言葉も歴史も教えることを禁止され、姓氏改名を強要されて、すでに彼は名前も日本式に「重光武雄(しげみつたけお)」と変えていたのである。
その「重光武雄」が釜山で関釜連絡船に乗る時である。
「おい、一寸来い」、眼光鋭い一人の男が重光に声をかけた。「私ですか?何か用ですか?」「用があるから、来いというのだ。」重光青年の知的な顔立ちが悪名高い「特高」(特別高等警察)―かって思想犯罪、つまり社会主義、共産主義、無政府主義者などを取り締まる役割をした警察機関で、多くの社会主義者が彼らによって弾圧されたり虐殺された―の目に止まったのである。当時、関釜連絡船が朝鮮と日本を結ぶ唯一の通路であったので、「特高」は常にここに事務所を置き、少し知的な顔をして「主義者」となる可能性のある人間と判断すれば、執拗に取調べをし、荷物の検査をしてのである。
後に日・韓産業界の大物となる重光武雄も日本に渡る最初の門出に当たって、釜山で彼らにより屈辱的な取調べを何時間も受けねばならなかった。
日本への移住という「初の門出」に当たって、経験したこの屈辱は、彼に改めて「民族的な自覚」を呼び起こしたのであったが、また同時に、日本で安全に生活するためには、これからは自分が「辛格浩」であることを徹底的に隠して、日本人「重光武雄」として生きねばならぬと決意させたのであった。
これ以来、彼は日本での波瀾の多い生活を経験しながら、彼は自身に関しては固く口を閉ざして語らないことを原則にしたようである。多くの紆余曲折を経ながら、韓国第一の流通・観光財閥となり、日本では最大の綜合菓子会社のオーナーに成長しながらも、彼はこの原則を守り、「秘密の多い人物」とされてきた。
この結果、韓国では有名な人物とされながら、早くから彼について幾つかの疑惑が突きつけられてきた。それは、まず第一に、彼は早く日本に帰化したのではないかという疑問であり、次に、彼は日本人として韓国に投資しているのではないか、という疑惑である。
これらについて、大方の伝記作家は、否定的な答えを出しており、彼はあくまで民族的主体性を守っているとしている。この疑惑について、自らは沈黙を守っているのであるが、彼の家族については、初婚の故郷で結婚した女性が死亡した後、次に結婚した女性が日本人の「竹森初子」とされていることも関連があるのかも知れない。しかし同時に、この女性から辛東主(トンジュ)、辛東彬(トンビン)という二人の男子をもうけているという事実も知られている。
いずれにしろ、これらの諸事実を前提にしながら、彼の日本における「重光武雄」としての生活が始められたのである。
へぇー 偉いね👌
と言いながら、全部読めない😢
だって長いんだもん😓
小説一冊くらい💦
初めと最後だけ読みました。笑
朝は時間切れ。帰ってきたら真ん中読もうかな。🤣
重光さん大好き、도꾜제일の近くに東京スタジアム🏟ロッテオリオンズの本拠地小学校の時、試合がある日はほとんど行った小学生無料だった⚾️同級生とアルトマン、ロペス、有藤選手大好き💕優勝🏆した時はグランドに降りてハシャギまくってた懐かしい🙆♂️又錦糸町のロッテ会館の우리동포の結婚式の聖地、地元墨田지부に所属してた頃ロッテ会館に💐結婚式🤵♂️👰♀️の打ち合わせ지부위윈장と行くと在日朝鮮人特権50万円値引き🫢何組もやってもらいました。重光オーナーには何回かお会いしましたいい人でした。🙇♂️
2日かけて読み終えました。
読み進めるうちに、どんどんハマっていきました。
「家族に豊かな生活をさせたい!」
そこから始まった快進撃。
在日のヒーローですね。
高校時代、新宿駅内のロッテリアに通った頃を懐かしく思い出しました。