化粧品製造による再起
友人の中には「解放された祖国に帰り、もう一度初めからやりなおそうではないか」という人もいたけれども、家族の期待を担い、かつ故郷を捨てるようにして日本に来た身であるので、何かしっかりした成果なしには帰れない彼であった。
また、自分を信頼して二度も融資してくれた花光老人を裏切って、そのまま帰ってしまうなど出来ないことであった。
彼は「この大動乱の時期こそ、成功のチャンスなのだ。必ずやって見せるぞ」と決意を新たにして杉並区荻窪の古びた軍需工場の寄宿舎であったアパートの一室に「光特殊化学研究所」という小さな看板を掲げたのであった。1946年5月のことである。
友人たちがやって来て「重光、お前、たいそう立派な看板を上げたものだが、一体何をやるつもりなんだ。また研究所とは何を研究するつもりなんだい。」
これに対して重光の答えは、まことに真面目なものだった。「俺は敗戦直前まで旋盤用の油を作っていたから、そのコーティング油で石鹸や化粧品を作ってみようと思う。今は生活物資が不足しているし、化粧クリームは少量でも研究によっては高い付加価値を付けることが出来ると思う。見ていろ、やって見せるから。」
彼は洗濯石鹸、化粧石鹸、ポマード、クリームなど、次々に研究を重ねて生産していった。応用化学を専攻した彼にとって、油脂を使って製品を作っていく工程は別に難しいことではなく、これまで使っていた大きな釜に油脂と凝固剤、さらに若干の芳香剤を製品の用途に応じて混合の比率を変えて行けば良いことであった。生産の工程は手工業的な規模であったが、適当な器や包装を工夫して製品を作れば、製品はたちまち飛ぶように売れて行くのであった。
彼は納品と集金のために、一日に200軒もの商店を自転車で廻らねばならない有様であった。「研究所」の人員も、内部では生産工程と研究員、営業、経理などに分かれ、包装には付近の家庭の主婦が多数動員されたのである。
このように活気に満ちた1年を過ごした重光青年は、ついに花光老人から借りた6万円を全額返すことができた。好景気が続いており、店主たちは製品の出来上がりを待ちかねて、前金を払い、「商品が出来たら、すぐに知らせてくれ、受け取りに行く」という商店主も出てくる状況であった。
このような化粧品に対する飢餓感は、平和を回復した中で、人口の半数以上を占める女性たちの美に対する本能的な願いが、いかに根強いものであるかを語っている。
この頃のことを重光会長は、後に次のように語っている。
「戦争が終り、花光老人にどのように報いようか考えて、化粧品生産を始めて、1年半を過ぎ、6万円の借りを返し、花光先生には家を一軒買って差し上げました。事業を始めた以上、どうしても収入を増やし、花光老人にどのように報いようか考えてきたのです。」
重光青年は、自身の挑戦精神とアイデアによって成功を収めたことも嬉しいことであるが、これを通じて事業の妙味というものを体得したのであった。すなわち事業の勝敗を決定する鍵とは、第1に、時宜に応じた商品の開発であり、第2に、需要をいち早く読む市場把握力、第3に、アイデアを果敢に実現させる推進力だ、と判断したのである。こうして彼は事業を本格化させ、ヤミ市で化粧品を売って稼いだ資金を元手に、彼が26歳のとき、資本金100万円で株式会社「ロッテ」を設立した。当時の社員はわずか10名であった。
1947年、彼は日本から韓国を訪問する有名な人に頼んで、自身の近況を伝える手紙とともに、大人の掌ほどの大きさの金塊2個を故郷の父親に送った。この時、幼かった長男が異国の地に渡り、血の涙を流しながら稼いだ金の結晶である金塊を受け取った父と母は、あまりの嬉しさに夜を明かして涙を流したと、村の人々は今も伝説のように語り伝えている。
へぇー 偉いね👌
と言いながら、全部読めない😢
だって長いんだもん😓
小説一冊くらい💦
初めと最後だけ読みました。笑
朝は時間切れ。帰ってきたら真ん中読もうかな。🤣
重光さん大好き、도꾜제일の近くに東京スタジアム🏟ロッテオリオンズの本拠地小学校の時、試合がある日はほとんど行った小学生無料だった⚾️同級生とアルトマン、ロペス、有藤選手大好き💕優勝🏆した時はグランドに降りてハシャギまくってた懐かしい🙆♂️又錦糸町のロッテ会館の우리동포の結婚式の聖地、地元墨田지부に所属してた頃ロッテ会館に💐結婚式🤵♂️👰♀️の打ち合わせ지부위윈장と行くと在日朝鮮人特権50万円値引き🫢何組もやってもらいました。重光オーナーには何回かお会いしましたいい人でした。🙇♂️
2日かけて読み終えました。
読み進めるうちに、どんどんハマっていきました。
「家族に豊かな生活をさせたい!」
そこから始まった快進撃。
在日のヒーローですね。
高校時代、新宿駅内のロッテリアに通った頃を懐かしく思い出しました。