全鎣弼の結婚
ところで話は前後するが、実は彼は高普時代に、周囲の人たちの一日も早く後嗣を得ておきたいという切実な希望に勝てず、結婚していたのである。仲介者の言う相手の家の家柄と女性の年齢や性格をきいて判断するだけで、本人同志会うこともなかったのではないか。
それは養父命基の3年喪が明けた1922年の春、彼が徽文高普2学年、17歳の時であった。相手は固城李氏鐘羽の娘、なぜか結婚して4か月もせぬ1922年6月に急逝してしまう。奇妙な夢のような事件であった。澗松の心に痛みだけが残った。
しかし、それ故に周囲はなおさら再婚を迫り、ついに1923年、金海金氏昌燮の娘との結婚式が上げられた。この度は相手の健康が特に注意されたことであろう。
この婦人は開城地方の大地主の娘で、後に普成中等学校の理事長を26年も勤める金點順(1905-1988)である。この父親は後に澗松が資金がない時、立派な農地を売って小さな陶磁器を買うのが理解できないとしながらも、澗松の急ぎの頼みに応じたこともあったようである。
当時、18歳での結婚は珍しいことでもなく、それは話題になることもなく、彼は学校に行けば学業にはげみ、運動に熱中する一人の少年であった。
実はもう一つ。それは彼が1926年、早稲田大学に合格し、東京に向け出発するのであるが、この年に彼は一児の父となるのである。慶事が重なり、彼の家には久しぶりに笑いにあふれたのであった。父は家に光をもたらす孫だと、この児に光雨と名を付けた。
全鎣弼の東京生活
いかに植民地になったといえソウルにいる時、彼の周囲には彼を名家の貴公子として認め尊重してくれる人にあふれていた。しかし一人東京で暮らすことになった時、彼はただ植民地朝鮮から来た一青年に過ぎなかった。助言をし、生活の便利をはかってくれる人もなく、すべて自身で日常の様ざまなことを処理せねばならなかった。ソウルでは日常の瑣事はすべて周りの人がやってくれ、彼は学業に専念すれば良かったのであるが。
しかし、彼はすぐに日常の生活を規律正しく軌道に乗せ、身の周りを清潔に整頓し、小さなことも粗末にせず、倹約に努めて、学生生活を正常化することができた。
講義に熱心に参加し、空き時間があると近くの丸善支店とか古本屋に立ち寄り、本をあさった。こうしてかれは法律の勉強と共に図書の蒐集に趣味をもつようになっていった。
ある日、こんなことがあった。丸善支店に行くと、各種の蔵書目録の台本帳があった。分類しながら書き込んで行けば、一冊千巻位は整理できそうである。
無心に手に取って、あれこれ考えていると後ろから声を掛ける者がいた。見ると同じクラスの眼鏡を掛けた学生である。笑いながら「君、その目録を満たす自信があるかな」一朝鮮人の一学生がいくら苦労しても。そんなことができる訳はないではないかという笑いである。「何年も努力して集めれば、この目録何柵かの本位集められるでしょう。」これを聞くと、その学生は、「それは、そうだろうけれどもさ、ハハ」と嘲笑を残して行ってしまうのであった。つまり、朝鮮人にそんなことが出来る訳がないと決めているのである。
彼は同じ学友の本心を知り、改めて殖民地朝鮮の亡国奴の一人としての憤怒と悲しみを噛みしめたのであった。
名前が難しくて、読めなかった~👀💦
でも、ありがたい事ですね。本人の趣味とはいえ、このように保管してくれたから、今我々が鑑賞することができるんだもんね~😊
それにしても、ウェノムのために、どれだけの文化遺産が奪われたかと思うと、頭に来るねぇ~🤦♂️ ウェノム~ ウェノム~🤢
바람 회원 で문근영が描いてた絵!
こう言う人が居たから、後世に伝わったのね!
在日にも高麗美術館を建てた人が居るよね!