青年期の商業進出
①「具仁会商会」開店
彼の最初の商業活動は「反物屋」であった。その動機は、次のように考えられる。
当時、晋州は流行の街であり、消費の街であった。街に人々が集まり、豊かな人でにぎわった。妓生も多く、金持ちの夫人たちも絹織物や外国製の衣服に関心が深かった。
また、街では士農工商の身分的な差別意識も薄くなり、経済的関心が強くなっているので、商機が充分にあると考えたのである。
彼は智水協同組合と付き合いのあった晋州の千鐘万という人の千鐘商店をたずね、反物屋経営についての知識を集め、父に自分の希望を伝えたのである。祖父をはじめ具氏の家族は、依然として商業を下に見る傾向があり、始めは反対したのだが、度重なる願いに折れて、父から2千円の資金を得ることができた。しかし、これだけでは商売には不足であった。そのため富裕な家に養子に行っている弟の哲会に会い、あれこれと相談にのってもらった。哲会とは気が合って、一緒に商売しようということになり、合計3800円の金を確保できた。
こうして晋州市内の二階の建物に「具仁会商店」という看板を出すことができた。時に1931年7月、彼の25歳の時であった。
蓮庵は協同組合を運営しながら反物の需要と流通について緻密な調査にもとづいて仕事を始めたとはいえ、小規模の個人商店の運営は容易なことではなかった。
1932年11月、気持を変え、新しい店舗に移ったのであるが、翌年3月の決算には500円の赤字であった。当時、米1かますの価が4円56銭であったから、何と米100かますを越す損失であった。この時、彼は父親を説得し、父の所有する土地を担保として銀行から8000円の融資を受け、経営規模を拡大したのである。
彼は代金をまけない代りに、物差しを正しく使って、人の信用を得るようにし、反物の需要の少ない時に問屋で安く仕入れ、需要の多い時には高く売ることで、利益を上げて行った。次第に商売のこつを覚えて行ったのである。とくに農作物の作柄の多少によって、反物の売れ行きが大きく左右されることを覚り、降水量と田植の実績などを注意深く見守り、反物の売れ行きを予想したのである。
1936年7月の南江の大洪水の時、全市街が水没し、具仁会商店も被害を受け、やっと屋根に登り避難する状況で、千鐘万の商店も水没した。しかし、蓮庵は全財産が失われても絶望することなく歯をくいしばって、お得意と問屋からの信用、これまでの経験、自らの挑戦的精神をもって再起を誓ったのである。
彼は大洪水の後には必ず豊作になることを見越し、かつ反物の需要の上昇を予想して、米2000かます分に当る1万円の融資を受け、反物を買い占めておき、秋の豊作時に売りさばき、多くの利益を上げたのであった。
翌年、1937年、中日戦争開始の時も、戦時の特殊景気を予測して2万匹を買い占めて、一挙に8万円の利益を上げることができた。当時、上等の田が坪25銭程度であったことを考えると8万円の利益がいかに巨額であったか理解できよう。
彼は、また客の好みに応じて、反物の染色や加工に気をくばり、売上の増加をはかり、経営を拡大して行った。
開業して何年も経たないのに、基盤を固めた彼は1936年11月、晋州商工会議所議員となり、晋州における新興商人として広く名前を知られるようになった。
②革新的な貿易業に挑戦
反物商として具仁会商店が繁盛している1940年6月、彼は経営の領域を広げるために商号を「株式会社 具仁商会」に変更し、株式を発行するなど、近代的経営体制を整えて行った。
事業家として基盤をととのえた彼は、視野を広げ、貿易業への投資のために、まず、1937年春には、妻の弟の許允九の経営する鮮満物産に投資を始めた。
許允九は日本の早稲田大学経営学部出身で、当時、満州地方を対象に、にんにく、明太などを輸出し、大豆などを輸入していたのだが、彼は、この機会に満州を視察して交易につき研究を進めたのであった。
とくに満州一帯に日本軍が進駐しているのを見て、中日戦争の勃発を予感し、反物2万匹を買い占めするなど、新しい事態に備えたのであった。
貿易の拡大のため、彼はまた、絹織物の本場である日本の福井を視察するなど準備をしたが、日中戦争が始まった1937年7月以後は、日本による経済統制が強化され、自由な織物供給の道も閉ざされ、貿易も次第に困難となって行った。
とくに1939年11月、企業整備令が公布され、1940年2月には創氏改名制度が強制されて民族企業への植民地的搾取が強められて行った。彼は具仁商会の社長として事業の転換を模索せねばならなかった。とはいえ、この頃、具仁商会の預金残高はすでに40万円に達していたというから、彼の事業手腕の高さを如実に物語っている。
戦時体制の強化とともに、日帝は民族商人に圧迫を加え、貿易業は断念せざるをえず、彼は統制のゆるやかな青果物および海産物商に投資することにした。当時、外叔(母のおじ)河吉生が水産物商をいとなむ河信商業株式会社を経営しており、水産物にまで日帝の統制が及んでいなかったので、この部門へと考えたのである。
彼は河信商業に投資するかたわら、80トンの船を買い入れて水産物と青果を運送したのである。
具仁商会の仕事は東京高等工業学校を卒業し、平安南道の道庁土木課に勤めていた弟の具貞会にまかせ、彼自身は晋州青果物組合代表となり、青果と水産物の事業に熱中した。しかし、戦火は「太平洋戦争」へと拡大して、これらの事業も限界を感ずることになった。
この時、彼は土地への投資を決意したのであった。土地は具仁商会の利益金から、以前より少しずつ購入していたが、この時、日帝の滅亡を予感したのであろうか、預金をすべて引き出し、晋州周辺の晋陽、宜寧、咸安、固城などの大量の土地を入手して、万石家(大土地所有者)となったのである。
まさに一族財閥ですね~😊 役員に「具」さんだらけ~💦
日本にも大物の「具」さんがいたけど、親戚かな?
それにしても、韓国といい、中国といい、ロシアといい、財閥が幅を利かせますね~👀
それなりに企業努力があるんだと思うけど~👍