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LGの創業者ー具仁会

蓮庵・具仁会(1907~1969)は封建国家である朝鮮王朝の衰亡期に生れ、日帝による朝鮮植民地化の時期を生き抜き、祖国の「光復」とアメリカによる軍政、朝鮮戦争の苦難を経験しながら、韓国の急速な経済成長を現代科学技術の先端部門―とくに化学と電機の2部門で支え、国民生活の様相を、前近代的なものから先進的な現代的生活へと転換させるほどの変化をもたらす多様な商品を生産しつづけて来た韓国最大規模のLGグループを形成した先覚者的な企業家であった。

韓国財閥のトップ・グループは現在、「現代」、「三星」、「LG」の3大財閥から成るといわれているが、この3大財閥は戦前にその源流を形成した古い歴史のある財団であるといわれている。今回は、その一つ、「LGグループ」の創業者・具仁会の生涯と活動について簡潔に見ることにしたい。

具仁会の生涯

幼年期と時代的背景

蓮庵・具仁会は今日のLGグループを創業した企業家である。早く慶尚道の地主から商業家に脱皮し、さらに産業資本家として進出した20世紀を代表する企業家である。

彼は1907年8月27日、慶南晋陽郡智水面勝内里に、年収300石程度の地主であった具再書の長男として出生した。幼名をチョンドク(정득)といい、蓮庵は雅号である。祖父の晩悔・具然鎬は、科挙に及第して弘文館校理となったから、人はその家を旧校理宅と呼んだ。晩悔は経筳庁や春秋館の記注官となり、王の前で経書を講読して、高宗に近く仕え、その愛顧をうけた。

蓮庵の幼年の時期は、20世紀の初期にあたり、わが国の国運はまさに風前の灯のごとき状態であった。

まず1907年(丁未年)日帝による高宗の退位があり、純宗の即位となり、年号が隆熙となった。1908年には、わが国収奪の前哨基地の役割をになう東洋拓殖会社が設立され、1909年には、安重根義士がハルビン駅頭で朝鮮侵略の頭目である伊藤博文を射殺する事件が起った。

さらに1910年、日本による強制合併が行われ、植民地となったわが国は、以後30余年、政治、経済、文化の各方面で暴力的な植民地政策が強化され、憲兵による統治が強行されて、抗日独立闘士とその運動が弾圧される暗黒の時代であった。蓮庵はこのような時期に人生の初期を迎えたのである。

少年期と教育の過程

蓮庵・具仁会は祖父の下で漢学を学んだ。

13歳となった1920年、近くに住む大地主、許万寔の娘と結婚する。具家と許家の関係は、これが初めてではなく、祖父具然鎬の3番目の娘が許万寔の次男に嫁いでいる。具仁会は幼い時から然鎬、再書の下で伝統的な書堂の教育を受けていたが、1921年慶尚南道に普通学校(後の智水普通学校)が設立された時、妻の兄であり、後に中外日報の経営者となる許善九の勧めにより2学年に編入し、近代的教育を受けることになった。後に許氏との共同といわれる経営がはじまるのは、具家と許家とが姻戚関係があったことによるが、このような生い立ちの環境から条件が整えられて行ったのである。

智水初等学校

3年間、普通学校で初等教育を受け、つづいてソウルの中央高等普通学校に進学して、2学年の時、中退して帰郷したのであった。

当時、中央高普は高麗大学校の設立者である仁村・金性洙が経営者となり、強力な民族精神にもとづいて教育を行う学園であった。

田舎者の具仁会青年は、入学してすぐ読書グループに入り、これまで聞いたこともない東西古今の名著に接し、次々と読破することになった。この時期、彼が読んだ書物がどのようなもので、その数はいかなるものであったかは、いま明らかでないが、後日、その人生を豊かにする土台となったことは明らかである。

それでは、なぜ彼が中央高普を2学年で中退することになったか、それには二つの理由が考えられる。

一つは、学費を出してくれた義父が死亡し、ソウルの留学生活が困難になったことと、第二に、保守的な祖父の、ソウル留学を中止し、この機会に帰郷せよとの指示によるとの述懐がある。

しかし、ある研究者によれば、彼の中退は、この二つの理由もあるであろうが、その年、長男の滋暻が生れ、家長としての責任感もあり、19歳になり社会人として自立したいという気持もあって、学業を中断したのではないかと思われるという。(金柄夏氏)

青年期と協同組合

19歳の青年、具仁会は家に帰ると、押さえ切れない野望をかかえ、村の奨勤会を利用し、消費協同組合運動を展開する。

当時、村には村上というソロバンの巧みな商人が雑貨店を開いていた。蓮庵は、これに対抗して消費協同組合の運動を展開しようと、村の人々に、協同して石油、セッケン、木綿、絹織物を買い入れれば、村上商店より安く品物を買うことができると説いたのである。

これが現実となって、1929年には智水協同組合が組織され、彼は理事長に選出されることになった。彼は協同組合を運営することにより、木綿の流通経路やマーケッティングの手法を理解し、また同時に、東亜日報晋州支局長となり、活動範囲を広めたばかりでなく、マスメディアに対する関心を高めることになった。

彼は新聞を熱心に読み、同時に、1927年から始まった京城放送局によるラジオ放送にも耳をかたむけ、見聞を広めたのである。

この協同組合の活動に3年の間、熱中したのであるが、彼は次第に、この村の協同組合はあまりにも活動範囲が狭く、自らの野心を満たすために、もっと広い所で仕事をしたいと考えるようになった。

こうして彼は晋州に進出して反物商を経営することにした。

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1 COMMENT

28三井さん~

まさに一族財閥ですね~😊 役員に「具」さんだらけ~💦
日本にも大物の「具」さんがいたけど、親戚かな?
それにしても、韓国といい、中国といい、ロシアといい、財閥が幅を利かせますね~👀
それなりに企業努力があるんだと思うけど~👍

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