窓の外を眺めながら…

LGの創業者ー具仁会

壮年期の企業活動

1)壮年前半期、化学工業の発展

①「樂喜化学工業社」の設立

彼は41歳の壮年期に新しい可能性に向って挑戦を始めた。1947年1月、樂喜化学工業を設立し、同時に「ラッキー」の商標をもつクリームの生産を始めた。「ラッキー」は具貞会の提案が採決されたものである。

クリームは、まさに飛ぶように売れた。質も良く、材料が貴重であった時期に、貯えてあった材料を充分に使うので、他の会社の製品が1ダース5円であった時、ラッキークリームは1000円であっても、まさに飛ぶように売れたのである。

会社の組織としては、具仁会社長が会社を代表し、総括的に経営を行ない、具貞会は主に対外事業に任じ、販売集金業務は許準九、生産は金俊煥が担当して、組織の根幹としたのである。これらの人は、みな身をおしむことなく一人三役四役の役割を受けもち、事業発展に全力を傾けた。

好景気は創立以来1年間継続したし、グリセリン購入の困難はあったが、3年間に3億ウォンの利潤を上げることができた。

ところが、1950年6・25の朝鮮戦争勃発は、日帝のくびきから逃れ再建の道を歩み始めた経済に致命的な打撃を与えることになった。

ソウルの化粧品工場は戦火のためすべて破壊され、卸し店と小売店の在庫品もすべて灰となってしまった。ただし釜山にあった工場は戦火をまぬがれ、樂喜化学は生産を継続することができた。さらに、その間、苦心して外来製品にひけを取らない半透明クリームも開発されて、跳躍のための絶好の機会となったのである。

それに、戦争のため散り散りになった家族が好運にもみな釜山に集結でき、大新洞工場は連日楽しい作業が続けられた。

このように生産された樂喜クリームは、釜山国際市場を独占し、近隣都市への販路を拡大して行った。かつて例を見ない戦乱の中での好景気であった。さらに戦争を前後して、企業の高度成長を達成できた裏には、化粧品製造の重要な原料である香料の革新的改善が達成できていたからである。

具仁会会長は1952年4月、釜山で開催された第5回大韓化粧品工業協会総会で第6代理事長に選任され、ついにこの業界の第一人者となったのである。

②プラスチック工業の開拓と歯みがき薬の開発

具仁会は化粧品生産で大きな成功を収めたが、さらに壊れないクリーム容器の蓋の開発という開拓者としての努力を続けていた。このためにプラスチックの蓋が有望であるという情報を得て、早稲田大学に留学中の同郷の友人に頼んでプラスチック関係の『合成樹脂叢書』6巻を求めて熟読した結果、プラスチック産業が有望なことを知ることになった。

ただちにプラスチック工場を設立する準備を進め、米国からはインジェクション機械(射出器)を注文し、1952年9月からプラスチック製の櫛を作り始めた。

これは予想どおりに良く売れて、その年11月には工場を拡大して射出器も5台にして、歯ブラシ、洗面器、食器などを生産し、大好評の売れ行きとなった。

1952年に東洋電気化学工業社を設立し、10月に最初の合成樹脂製品である「オリエンタル」商標の櫛と石鹸箱を製作した。

このようにして樂喜化学は、次々と安価で便利な多様な日常用品を通じて、これまでの生活文化を画期的に変化させながら韓国プラスチック工業を牽引して行ったのである。

1954年、ビニール・シート、およびフィルム生産。
1955年、樂喜歯みがき発売。

この歯みがき発売の成功により樂喜金星グループの基盤はいちだんと堅固になった。
1956年、塩化ビニール・パイプ。
1957年、ビニール板、ポリエチレン・フィルム。

これらの製品は人々の生活に便利な革新的製品として歓迎された。こうして樂喜化学は合成樹脂と歯みがき製造を中心として二元化し、国民生活の近代化に寄与したのである。

とくに歯みがきは、外来技術を受け入れて製造したものではなく、「なせば成る」との意志の力で生産した純粋の国産品であることを誇りにしたのである。

③半島商社設立と貿易業に進出

具仁会は、1956年4月30日を期して、樂喜産業株式会社の商号を「半島商社株式会社」と変更した。この時、ソウル事務所の活動拡大により半島商社はサムソン物産と肩を並べ、半島ホテル504号室を使うことになった。

半島商社に、発展する前途を見越しながら、今日のLGの輸出入業務を担当する大企業としてテンポの速い成長の道を歩むことになる。以後、半島商社は韓国の貿易業の成長と軌を一にして、この分野の発展を主導するのである。

2)壮年後半期、電子産業の開拓-電子産業の始まり、金星社創業

1958年当時、釜山市にあった金星社(現LG電子)の工場

金星社の設立は1958年。この会社は設立のはじめから国産ラジオの生産を目指し、1959年より生産を始めた。しかし消費者の外国製品好みのため扇風機とともに売れ行きは芳しくなかった。

この製造と発売をめぐっては、社会で討議を重ね、外国での売れ行きも参考にし、外国技術者も招聘するなどして、具仁会の挑戦意欲による決断の結果であったのだが。

1961年具仁会 自動電話機(GS-1)試験通話

しかし、この苦境を救ったのは、1961年、朴正熙政権によって推進された農漁村にラジオを送る運動であった。これによりラジオの販売実績が急速に増加し、1961年にラジオは約53万台であったのが、1974年には556万台と、10余年間に10倍の増加を見ることになった。

また、1961年12月、KBSテレビが開局してTV受信機の製作にも拍車がかかった。

1966年8月、金星社は国内最初の白黒TVを組み立て、生産を始め、成長を重ねた。1961年、韓国のTV台数は2万台に過ぎなかったが、1974年には160万台を越えることになった。このように具仁会は時代の波に乗って韓国初期の電子産業の成長に寄与したのである。

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1 COMMENT

28三井さん~

まさに一族財閥ですね~😊 役員に「具」さんだらけ~💦
日本にも大物の「具」さんがいたけど、親戚かな?
それにしても、韓国といい、中国といい、ロシアといい、財閥が幅を利かせますね~👀
それなりに企業努力があるんだと思うけど~👍

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