窓の外を眺めながら…

LGの創業者ー具仁会

解放と朝鮮興業社の設立

1945年、祖国は光復を迎えた。日帝の戦時体制により萎縮していた経済活動も少しずつ活動を始めていた。新時代を迎えた具仁会も、新しい出発を決意し、より広い活動を求めて計画を練った。

こうして彼は晋州の具仁商会を閉じ、帰国同胞と米進駐軍のひしめく釜山に活動の場を移したのである。

彼は土地の一部を処分して、9月には釜山の中央部である中区の西大新洞の敵性家屋(日本人が住んでいた家屋)を購入し、貿易業を主とする朝鮮興業社を設立し、米軍政庁の許可を得た。これは解放以後、韓国における貿易業許可の第1号となる歴史的なものであった。具仁会は、こうして小商人的、地主的企業家から脱皮して近代的企業家となるのは8・15解放以後のことであった。

この時、許万正は三男の準九を朝鮮興業社に入社させ、自身もこれに投資して、以来、具家と許家の出資による協力型経営が始まったのである。

当時の主要な燃料は木炭であったが、その質はまことに深刻な状態であった。彼はそれを対馬島に求めようと考えた。対馬の日本人は昔から木炭を作り、外部に売って食糧に代えていたのである。

彼は手持ちの船を送り、木炭を仕入れようとしたが、強い風波のため船は九州の福岡に行ってしまい、仕方なくそこで農機具を仕入れて帰ることになり、当初の計画は失敗に終わった。

彼は、また自動車を買い入れ自動車運送業も試みたが、それもうまく運ばなかった。失意の日々を送るうち、弟の具貞会が暇にまかせて撞球屋(ビリヤード)に出入りするうちに、金俊煥という興亜化学工業社の化粧品技師と知り合うこととなった。具貞会は金俊煥より興亜化学が道庁商工課の指定業社としてクリーム、整髪油などを作っているという話を聞いた。

この話を聞いた具仁会は、まさに天からの啓示を聞いたように感じたのであった。「地球上に女性が住むかぎり化粧品は永遠なのだ!」

具仁会は、その場で化粧品事業への参加を決意し、強力な推進力をもって指定業者としての許可を受けたのである。

1946年2月、具仁会は弟の貞会と許允九を連れて興亜化学を訪問し、取引を開始した。70万円のクリームをソウルに持って行けば、ただちに現金で100万円を得る有利な仕事であった。化粧品販売で成功した彼は、自ら直接クリームの生産を決意し、当時、興亜化学と感情対立を起こしていた金俊煥を自社の技術責任者として迎えることとし、かつ金俊煥を通して釜山の近くの影島で、原料不足に陥っていたクリーム原料を大量に保有している元日本人経営の石鹸工場の主人とも知ることになった。

こうして彼は固城の土地と具仁商会を処分して、ドラム缶40本分のひまし油をはじめとしてステアリン酸、グリセリン、香料など300万円分を買い占めることができ、彼のクリーム生産の基礎作業はととのった。

ここで、創業時の具仁会を取りまく兄弟および許氏の活動を概観して、具仁会の目指した経営の理念、その方向を探ってみよう。

具仁会のすぐ下の弟、哲会は伯父(おじ)の養子となり、また哲会の長女は許万正の三男・許準九と結婚した。許準九は、すでに述べたように1945年秋から朝鮮興業社で勤務しており、その後、準九の弟・慎九とともに樂喜化学工業ソウル営業所に勤務し、また準九の兄である次男の鶴九は製造部門を担当している。

許準九の経営参加と、許万正の資本参加を契機として、準九の兄弟も参加するようになり、許家はとくに営業・製造分野で創業期の経営に大きく寄与したのである。

また、具家の方も、具仁会の兄弟全員がそれぞれ仕事を分担しながら経営に参加し、長男の具滋暻をはじめとする子供たち、許準九をはじめとした許万正の子供たちが、良く協力して、樂喜化学を発展させ、今日の「LG」の基礎を築いて行った。これは具仁会が常日頃説いている人和団結主義によるものであり、彼は家族ばかりでなく、取引関係者をふくめて、人の和を大切にしたのである。

そして、これに加えて技術革新と財務管理と組織づくりを重視するLGの創造性を発揮していくのである。

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1 COMMENT

28三井さん~

まさに一族財閥ですね~😊 役員に「具」さんだらけ~💦
日本にも大物の「具」さんがいたけど、親戚かな?
それにしても、韓国といい、中国といい、ロシアといい、財閥が幅を利かせますね~👀
それなりに企業努力があるんだと思うけど~👍

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