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【東京朝高】アーカイブ写真⑪一朝高生に対する集団暴行事件が多発

1960年代に入り民族教育が急速に発展した一方、「韓日協定」の早期妥結を急ぐなかで総聯組織と民族教育に対する政治的な嫌がらせが増え、朝鮮学校の学生に対する集団暴行事件が1980年代にかけて多発するようになります。

「高田馬場事件」を目撃した20歳の学生は朝日新聞投書欄(1973.6.22)に「国士舘暴力を目撃して」との題で次のよう書きました。
「先日の国電高田馬場駅で国士舘大生が朝鮮高校生を襲った。その車両に乗り合わせた目撃者の一人として、当時の模様をお知らせしたい。僕の知る限り、襲った方は国士舘大生である。数人の学生が車内の朝鮮高校生一人を引きずり出しカサの柄で何度も頭を打ち、その後も無抵抗の朝鮮高校生を脅すように窓ガラスを割ったり、ののしり声をあげカサを投げつけた。だから新聞が報じていた乱闘の表現は僕には理解できない。電車が発車するとき、国士舘大生がまた窓ガラスを割ると、乗客がけがをすると身をタテにして守ってくれたのも朝鮮高校生であった。事件のあと、朝鮮高校生が僕たちに涙をためて言いかけた。『日本人にこの苦しみがわかるか』、『けんかをしかけたのは国士舘大生なのに、警察はわれわれにやめろ、やめろという』と。その言葉を聞いて、平々凡々と暮らす僕たちより、もっと年若い彼らの余りにも厳しすぎる現実に同情しないわけにはいなかった。」

心ある日本人教師たちによって、1970年代から80年代にかけてウリ学校の訪問や教員学生同士の交流が頻繁に行われました。これらの努力により朝鮮学生たちと日本の高校生たちとのトラブルは激減します。1994年に朝鮮高校生たちがインターハイに参加出来るようになった後には集団暴行事件は起きてはいません。

2 COMMENTS

匿名

高田馬場事件は我々が中2か中3の時だったと思います。
怒りに拳を握りしめた事を憶えてます。
また、私の利用する電車の沿線に国士舘があったので同じ中学の先輩から「早退するなら学校休め!」と言われてました。
新宿の駅では朝高生は南口を利用するんですが、国士舘とぶつからないように毎日私服と制服の警察が朝高生の後ろからついて来ました。
細かいイザコザは多々ありましたが、ある意味「命懸け」?笑
懐かしい思い出です。

十条

1975~1978年の3年間、私たち28期もこの期間は集団暴行事件の真っただ中でした。 
地方の朝鮮学校には無い、東京朝高ならではの。
当時一つの対応策として、地域・出身別の集団下校がありました。(記憶では、高1の時。)
女子もいろいろと大変だったと思いますが、男子は相手からすると、基本的な標的でした。
 
今となっては、考えられない時代です。(ある意味平和)
そんな中でも28期男子たちは、みんな勇気を持って立ち向かったと自負します。(やっても、やられても)
自分の子供たちに、語り継ぐ事もしませんが。

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