こんな話もあるでぇ〜第1話 幼稚園の記憶(上) 桂春団治さんの言葉

わて(B)が生まれ育ったんは大阪の生野いうところやった。大阪環状線の天王寺の隣辺りや。半世紀以上前に日本の幼稚園に通った私の話聞いてや。

当時は近くの우리 학교に유치반がなかったので日本の幼稚園に入ったと思うが、兄2人は幼稚園に行ってないねんな。生業に忙殺され幼稚園なんか考えも及ばなかった家庭の経済事情があったはずや。そして数年後、3番目くらいはちゃんと幼稚園に送ったろとの親の配慮(多分)があって、わては幼稚園児になったんや。4歳下の妹は新設された조선유치원に入ったから余計にそう思うねん。

わてが通った幼稚園は〈天王寺幼稚園〉。通天閣がある天王寺はその時代でも百貨店やら動物園やらがあり、当時それなりに栄えた街やってん。幼稚園の周りにはお寺がぎょうさんあって、お参りする人々の往来で常に賑わってた記憶がある。

わては毎朝、紺色のセーラー仕立ての幼稚園着に帽子を被り、半ズボンに白のタイツ姿でスタンバイしてた思う。そして、黄色いカバンを肩にかけて家を出るねん。一見イイトコのお坊っちゃま風情やね。幼稚園には歩いて通った記憶がないねん。家の近くまで幼稚園バスがお迎えしてくれた記憶がおぼろげながらあるから、そうやったはずや。

でも忘れられないことがあるんや。それは50年以上の年月を経ても今だに鮮明やで。幼稚園時代、いつも連れ添っていた仲間が2人おった。一人の名前が思い出せんのが残念でしゃーない。でも河合一茂君のことはちゃんと憶えているのでその話に付きおうてや。

駅から実家までの間の道中に串カツ屋があって、その真横では靴磨きのおっさんが毎日陣取って働きまくってん。大量の靴がその向かい側の小さなビルの入口に所狭しと乱暴に積まれてたんや。その建物の中に河合君の家があってな。細長で狭い感じやった。

河合君に導かれて家の中に入ると、すぐに居間兼寝室やったかなぁ。そこには木製の火鉢があって、その前でお父さんが鎮座されてはる。。河合君のお父さんは落語家やと聞いとったさかいにな、まるでその家具とお父さんの姿が劇場の舞台セットのようやった。いかにも落語家っちゅう雰囲気のその人が桂春団治さんやった。

桂春団治さんは髪を七三にピッチリ分けてて、笑顔が優しいおじさんやった。わては親にしつけられたとおり丁寧に挨拶をしたと思うねん。自己紹介もしたんとちゃうか。春団治さんは私の挨拶にうなずきはりながら「名前からして朝鮮の子やね。」と微笑み、語りかけてきはった。全部は憶えていないけどこう喋ってはった。

「日本も朝鮮も関係あらへん。そんなん気にせんと仲良うしたらエエねん。一茂とようしてな。」と優しく言ってくれたその姿は今でもホンマ鮮やかに蘇るんや。桂春団治さんは既に故人であられるけど、幼心に〈みんな仲良う〉をさりげなく語ってくれたその時の姿が半世紀を経た今、よりまぶしく思い出されるんは年齢のせいか?ヘイトが吹き荒れるご時世のせいか?どっちなんやろうと考えてしまう訳や。

ただ桂春団治さんが存命中に彼の落語をナマで聴くべきやったなと、ほろ苦い後悔の念が今でも心のどこかでうずいているんやね。
〈みんな仲良う〉に合掌…

★おまけの一言インタビュー
編集部ーこの話がスマホのブログ〈28の未来へ〉へに紹介される感想は?
Bースマン。わて、スマホ持ってないねん。
編集部ーなんでやねん 💢 ⤵

3 COMMENTS

今は大阪府民

確かお亡くなりになる少し前に、天満橋繁昌亭へ。最初の舞台挨拶の時、小声で何をおっしゃってるのか聞き取れず😰(やはり年齢には勝てないのか💦折角の機会だったのに…)と思って期待もせずに出番を待ちましたが。ソデを出てこられる時から背筋をピンと伸ばされ登場😵これが名人と言われる由縁なのかと、誰もが納得する迫力の舞台に魅了されました。投稿者さんの幼い時のエピソードを聞くと、人間的にも素敵な方のようです。あれから何度か落語を見に行きましたが、残念ながらあれ以上の舞台には出会えていません😓

笑点の回し者

読んでてとても暖かい気分になりましたよ。映画の一場面🎬を観てるようです。心地よいテンポの大阪弁と相まってあの時代にタイムスリップした気分に浸れました。
次回が楽しみですよねー。
期待してます。

匿名男

いつも素晴らしいエピソードありがとう😊ご苦労様です、頑張って👍下さい、管理人さん、近く食事しましょう!

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