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【歴史】総連と民団の熾烈工作の歴史①「金大中拉致」でKCIAが犯したミス

金大中を乗せた車は高速道路を関西方面へと向かう。顔は上着で覆われ、口には布切れを突っ込まれた。車中で金大中は犯人らが「あっちに行けば京都、大津だ」と話していたのを聞いている。その後、大阪南港から船で韓国へと運ばれる途中、海に投げ込まれそうになるが、犯人らが断念。拉致から5日後に自宅近くで解放された。

公安調査庁で調査第二部長を務めた菅沼光弘が語る。

「実は当初の計画では大津のサービスエリアで、東京から来たKCIAの連中は、大阪の総領事館のKCIA要員とバトンタッチする手筈だった。ところが大阪の要員が約束の時間に遅れてしまうというミスをやらかした。工作活動の世界では、遅刻は不測の事態があったと考えるのが常識だ。関西の地理に詳しくない東京のドライバーがそのまま運転し、金大中が耳にしたようなやりとりになってしまった」

菅沼は事件直後に近畿公安調査局で朝鮮半島担当となり、大阪のKCIA要員たちと深く関わった。

事件発生で日本の世論が騒然となるなか、金大中を担いだ韓民統は本人不在のまま結成大会を開き、金大中を日本に送り返すよう強く求めた。

韓民統でナンバー2の副議長となった鄭在俊(1968年に民団東京都本部の団長に選出)は、民団の運営にKCIAが干渉することに反発を覚え、朴政権を支持する民団中央執行部への批判を強めた。自著の『金大中救出運動小史』によると、そんな鄭在俊を韓国公使が大使館に呼びつけて圧力を加えたかと思えば、何者かによって自宅に火炎瓶が投げ込まれることもあったという。

韓民統はその後も民団執行部と激しく対立しながらも、韓国の左派と連携して金大中支援の活動を続けた。しかし、1978年には韓国の最高裁で「反国家団体」と規定されてしまう。この規定は韓民統が1989年に在日韓国民主統一連合(韓統連)に改編した後も現在まで続いている。

(後編につづく)

【プロフィール】
竹中明洋(たけなか・あきひろ)/ジャーナリスト。1973年山口県生まれ。北海道大学卒業、東京大学大学院修士課程中退、ロシア・サンクトペテルブルク大学留学。在ウズベキスタン日本大使館専門調査員、NHK記者、衆議院議員秘書、「週刊文春」記者などを経てフリーランスに。著書に『沖縄を売った男』(扶桑社)、『殺しの柳川 日韓戦後秘史』(小学館)がある。

※週刊ポスト2022年9月30日号

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2 COMMENTS

前代未聞

この事件を題材にした映画が数本あります。
どれを見ようか思案中です。

平和が一番🙌

この事件は、もちろん記憶にあるけど、何となくやりきれない気持ちになるよね~
同じ民族なのに、なんでそうも憎しみあうかねぇ~💦
もっと、じっくり話し合えば分かりあえることも多いだろうに👀😢
でも、後に大統領になって、南北の架橋になり、ノーベル平和賞まで輝いて~👍
わが民族も、もっともっと成熟していかないと駄目なんだろうね~
同じキムチ大好き人間なのに~🤦‍♂️

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